第四百五十二夜 鈴木すぐるさんの「山椿」の句

 鈴木すぐるさんは、奥様の鈴木征子さんとご一緒に、深見けん二先生の「花鳥来」に入会されてからのお仲間である。
 平成12年、「花鳥来」の忘年会でお会いして驚いたことを覚えている。というのは、その3年前の平成9年に蝸牛社から第一句集『神輿綱』を出版させていただいていたからである。
 
 昭和12年栃木県に生まれ、昭和30年の18歳には既に俳句結社「欅」で学び始めていたというから、すでに66年という錚々たる俳歴である。「都庁俳句」「さざなみ」「天為」「花鳥来」同人。9年前に創刊した俳句結社「雨蛙」の主宰者である。
 
 今宵は、第二句集『名草の芽』と俳誌「雨蛙」から作品を紹介させていただく。

  たかむらに火種のやうな山椿
 (たかむらに ひだねのやうな やまつばき)

 句意はこうであろう、竹林の中に、1本の山椿の木があった。赤い椿であった。冬から早春の竹林はの緑はうつくしいく、山椿の赤は、まるで火種のように見えましたよ、となろうか。
 
 椿は、赤、白、斑など色々あるが、園芸種ではない山椿は赤が多いように思う。「火種」と「山椿」だけ漢字にしたことで、さらに山椿は赤々と燃え立つ。【山椿・春】

  蓮池に大きな風の渡りけり
 (はすいけに おおきなかぜの わたりけり)

 句意は、蓮池に風が吹きわたると、蓮池の蓮がいっせいに吹かれて、それは見事でしたよ、となろうか。
 
 筆者は、茨城県南に住むようになってから、手賀沼の蓮を年に数回、折々の姿を追いかけた時期があった。手賀沼は長い沼で、真ん中に橋がかかっている。蓮は沼の一方にあり、その半分ほど蓮がびっしりと埋まっている。6月、7月、風のある日はよく通った。風の通りゆく順に揺れ出し、やがて渦となり、渦が解けると、再び風の通りに揺れ出す。
 「大きな風」とは「揺れる蓮葉の数の大いさ」と考えたとき、この作品の光景が見えてきたように思った。【蓮・夏】

  乗り継ぎの旅十歳の年始客  俳誌「雨蛙」
 (のりつぎのたび じゅっさいの ねんしきゃく)

 句意は、10歳になる孫が初めていくつかの電車を乗り継いで、おじいちゃんおばあちゃんの家に年始客としてやってきましたよ、となろうか。
 
 孫が10歳という節目に、いつものお正月はお父さんお母さんと一緒に来ていたのに、今年はひとりでやってきた。しつけの一環なのか、それとも自分から「ひとりで行く」ことを申し出たのか、両親ははらはらしながら送り出し、祖父母宅では事前に連絡があったから、はらはらどきどきしながら待っていた。
 「おじいちゃん、おばあちゃん、ぼく、ひとりできたよ!」
 の声に、ほっとした祖父母は急いで両親へ電話を入れたのだろうと想像した。こうした作品は、読み手もほっと安心するところがいい。【年始客・新年】

 俳誌「雨蛙」は季刊誌。年末に35号冬を頂いたので、36号春は9年目を迎える。だんだん内容が素敵になっていく。奥様の征子さんにそう言うと、「大変なのよ」という返事が返ってくる。年々迫力を増している88頁の内容から、さぞ大変だろうと想像するが、俳誌を持つということは、会員たちの俳句力、鑑賞力を育てながら、主宰ご夫妻もまた、より大きくなっていくという素晴らしさがある、と言えるかもしれない。

 鈴木すぐるさんの、深見けん二師の1句鑑賞の丁寧さ、深見けん二著『折にふれて』を繰り返し読んで考える姿勢に毎回感動している。今回は、白雲集の山本幸彦氏の「三島由紀夫」10句はどこか懐かしく、三島作品を彷彿させる力に惹かれた。