第四百五十三夜 中西夕紀の「落花」の句

 中西夕紀さんより戴いていた『朝涼』を、久しぶりに繙いてみた。お若い方と思っていたが、既に、本著は第3句集であり、俳誌「都市」の主宰者であり、活躍されている作家であった。
 
 『朝涼』のあとがきに、次のような印象的な文章があった。
 
 以前、ある作家が「私は後ろを向いて富士山を描いている」と言っていたのをどこかで読んだ覚えがあります。きっとこの方は、富士山をよく見て、自分の心の中で昇華した富士をよく見て、心に焼き付けてから、今度は現実の山を遮断して、自分の心の中で昇華した富士というものを描いていると、言っていたのではないかと思います。私もそんな風に俳句を作りたいものだと、最近思うようになりました。

 対象をしっかり見ることは一番大切なことだが、俳句に仕上げるまでの一拍二泊という昇華するまでの過程が、俳人には不可欠であるに違いないと、筆者の私も、思うようになっていたので、心に響いた。

 今宵は、中西夕紀さんの作品を『朝涼』より紹介してみよう。

  聞こえざる音とし聞ける落花かな
 (きこえざる おととしきける らっかかな)
 
 句意は、しきりに落花しています。何かが落ちるのであれば音が立つものだと思うが、何も聞こえない。でも、落花が「聞こえない音」を立てているのだとして、わたしは落花の音を聞いているのですよ、となろうか。
 
 花吹雪の時期にちょうど行き合うと、花びらが次から次へと落ちてくる。無尽蔵なほどの花びらなのに、音がしないなんて何と不思議なことであろうか。
 夕紀さんは、だが落花の音を聞いている。「聞こえざる音」として心で全身で音を受け止めているのだ。【落花・春】
 
  ミモーザや死者の蔵書に囲まれて
 (ミモーザや ししゃのぞうしょに かこまれて)

 「ミモザ」を「ミモーザ」と呼ぶのは、昭和初期、河東碧梧桐がヨーロッパ旅行をした際にイタリアで詠んだ句に〈ミモーザを活けて一日留守にしたベッドの白く〉があるが、この花は「ミモーザ」と呼ぶのが似合うと思っている。
 
 句意は、この部屋は亡くなられた方の書斎。死者の蔵書に囲まれてミモーザは溢れんばかりに大きなガラス鉢に活けられていましたよ、となろうか。

 「ミモーザ」と呼ぶ方の蔵書は、どのようなものであろうか。海外で学んだ専門書。絵画の本。天金の造りの書物。などが思い浮かぶ。【ミモザの花・春】

  蟇無々といふ顔してゐたり
 (ひきがえる むむというかお していたり) 

 句意は、おおきな蟇がのっそりと出てきて、「無々」という顔をしていましたよ、となろう。
 
 さて、「無無」或は「無々」はどちらも「むむ」である。「無」は、「ない」という意味だが、どう解釈したらよいのか難しい。蟇の顔は、「なんだか虚しい」といった顔なのか、或は「むっとがる」という動詞に「むっとする」「憤然とする」という意味があるが、それを「無々といふ顔」といったのだろうか。
 筆者の私は、蟇の、あの何とも言い難い迫力ある顔は、「むっとがる」の意で、中西夕紀さんは、憤然とした顔のように感じたのだと思った。【蟇・夏】

 中西夕紀(なかにし・ゆき)」は、昭和28年(1953年)東京都生れ。慶応大学法学部政治学科卒。昭和55年より俳句をはじめ、翌56年「岳」に入会。昭和57年「鷹」に入会、藤田湘子に師事。昭和60年、鷹新人賞。平成8年、「晨」に参加。平成11年より宇佐美魚目に師事。平成20年、「都市」を創刊、主宰。句集に『都市』『さねさし』『朝涼』『くれなゐ』。俳人協会会員。文芸家協会会員。