第四百五十四夜 大串章の「大枯野」の句

 大串章氏の作品は、1年近く前の3月20日の「千夜千句」第百三十二夜で紹介させていただいた。第3句集『百鳥』が上梓されたころであった。
 平成9年、蝸牛社から刊行した俳句・背景シリーズ9巻目に、大串章氏は『抒情の曠野』を書き下ろしてくださった。このシリーズは、「33のテーマを立てて自作を解説する」ことが主眼であるが、それぞれ担当してくださった先生方は、みな違ったアプローチであった。
 
 大串先生は、『抒情の曠野』の中で、テーマを《俳句の方法》《他者の目》《自句自解》という3つの部門に分けて、自作を立体的に眺めてみようと試みている。
 
 今宵は、3つのテーマの中に登場した作品を紹介してみよう。
 
 Ⅰ 俳句の方法
 
  鳥渡るセザンヌの山ミレーの田
 (とりわたる セザンヌのやま ミレーのた)
 
 句意は、繁殖地から遠く離れた越冬地との間を、年に一回、定期的に往復している鳥たちよ、大地には山々があり田んぼも広がっている。ちょうど晩秋、セザンヌの荒涼としたタッチで描かれた山眠る前の美しい山も、収穫を終えた田では落ち穂拾いの人たちもいるのですよ、となろうか。
 
 この作品は《対句》の形である。意味や語形の上で対照的な語句を並べることによって、1句の印象を鮮明にし、意味を強めることができるとし、平易で覚えやすい、という効果があげられるという。
 筆者の私が、惹かれた点は、対照となった2つが誰もが知っている画家であったこと。さらに晩秋の季語「鳥渡る」としたことで、絵画作品がすぐに浮かんできたことであった。色彩的にもうつくしい。
 
 Ⅱ 他者の目

  水上に宙たつぷりとつばくらめ
 (すいじょうに そらたっぷりと つばくらめ)
 
 「宙」は、天、大空のこと。「ちゅう」と読むが、「そら」とも読む。私は、音の調べから「そら」と読みたいと思う。
 
 句意は、大海原の空は広びろとして果てしない。この燕(つばめ、つばくらめ)は、繁殖地として、春に南方から渡ってくる鳥だ。休憩地があるかもしれないが、ゆけどもゆけども、水の上に天空の、なんとたっぷりとあることよ、となろうか。
 
 平成13年(2001)、フランスのドキュメンタリー映画『WATARIDORI』を観た。渡り鳥が飛んでゆくすぐ近くからの映像は、迫力があった。大海原の上空を頭を前方に向けてひたすら羽を動かしている。あの映画に音があったかどうか覚えていないが、1時間半ほど、羽ばたきだけ聞きながら、観客も必死に飛んでいる感覚であった。
 
 この映画を思い出して、作品を読むと、広大無辺の空と、眼下を遥か遠くした海原と、無音の世界の中で飛んでいる燕(つばくらめ)のひたすらさが見えてきた。
 
 俳誌「交響」の主宰者で俳句評論家である鈴木昌平は、「動即静」「声即寂」という逆説の効果を苦もなく読者に示す大串の手練の秘宝を、一見無技巧に見てとれる彼の俳句から、我々は読み取らなければならないと思う。」と評している。

 Ⅲ 自句自解

  父の骨冬田の中を帰りけり
 (ちちのほね ふゆたのなかを かえりけり)

 句意は、父の骨壷を抱いて冬田のなかを帰ってきましたよ、となろうか。

 自句自解「父の死」の頁は、父を思い出すことを、1頁に12個、書かれている。3つ書いてみる。
 ・結婚するとき、妻はなぐるな、と言ったこと。
 ・孫にビールを注がせながら、こんなに幸せなことはない、と喜んでいたこと。
 ・火葬場から帰るとき、黙って骨壷の中にはいっていたこと。
 
 あとがきに、「私は俳句はホイスリッヒな文学であると思う。ピカソが自分の息子クロードを描く時だけはふっくらとして可憐な少年像に描きあげた、という意味においてホイスリッヒであると思う。」「この言葉の裏には、少なくとも自分の俳句にはデフォルメやシュールの要素は導入したくない、という思いがこもっている。(略)」(「わたしの俳句作法」)とあった。
 
 「ホイスリッヒ」を正確には言えないが、父を思い出すことの3番目は、父の骨壷を抱いてゆく光景だが、父を「黙って骨壷の中にはいっていた」と捉えた感性は、俳句に持ち込むことはしなかったシュールの欠片ではないかと思った。