第四十一夜 泉 幸子の「月光」の句

  月光やマリアカラスのコロラトゥーラ  泉 幸子
 
 句意は次のようであろうか。
「月光が明るく輝き渡っていて、オペラの歌姫マリア・カラスの転がすように歌う見事なコロラトゥーラを聴いているようですよ。」

 泉幸子(いずみさちこ)は、昭和二十一(1946)年、高松市の生まれ。俳句は平成十一年より深見けん二に師事。平成二十五年に亡くなるまでの十四年間、俳人として短いと言えるかもしれないが、自分の天命を知っていたかのような迫力で俳句道に邁進した。没後、同じ結社で学ぶ私は、俳縁のように、遺句文集『安らけし』を編集し、そして七回忌となる令和元年の今年、壁新聞「安らけし」を1号から5号まで制作した。
 タイトルは、代表作の〈安らけしいつもだれかがゐる泉〉に拠る。
 
 遺句文集は、「花鳥来」に掲載された投句をはじめ、けん二師や連衆の俳句のコメントや鑑賞、例会や稽古会や小句会の様子、泉幸子が書いてきたエッセイや俳句観や鑑賞を一つ残らず掬いとって載せた。そしてご家族全員に書いて頂いた「母と俳句」の文章を載せた。
 
 俳人は、句集を望むものと思っていた。しかし今回、壁新聞を編集するにあたって読み返しながら考えたことは、ご家族にとっての俳句の意味であった。妻であり母である泉幸子が飛び込んだ俳句の世界を再確認することの意味であった。5号まで出来上がったとき、確かに、俳句の世界を得た泉幸子の、一段と高みへ立った生き様がうかび上がっていることを感じた。それは、遺句文集と壁新聞という形で遺そうと決めた、ご主人の力であった。
 
 そして、入院生活の幸子俳句を毎月60句、14ヶ月で一千句に及んだファックスでのやりとりを最後まで支えたのは、師・深見けん二の選句の力であった。「花鳥来」は常時60名ほどの会員であるが、それは、師が一人一人に目も心も行き渡ることの可能な人数だということなのであった。
 
 掲句は、俳句を始めたばかりの頃の作品である。クラシックが好きなご主人と、もしかしたらマリア・カラスの日本公演を聴きに行ったのかも知れない。マリア・カラスは、ともかく練習熱心なオペラ歌手で、とくに、「マリア・カラスのコロラトゥーラ」と呼ばれるほどの自在な、高度な技術とドラマティックな声を持っていたという。

 もう一つ、司馬遼太郎の小説『坂の上の雲』にみる志を遂げようとする心持ちに、自身の気持ちを重ねた壮大な句を紹介しよう。
 
  初句会坂の上なる雲目指し