ふりむかば何か失ふさくらかな 嶋田麻紀『史前の花』
句意は次のようであろうか。
「もし今、ふりむいてしまったら、きっと何か大切なものを失うことになるに違いない。それにしても桜は美しいことよ。」
鑑賞してみよう。
一本の大桜が花吹雪となって散る様を見ていたときの作であろう。この大桜を、怖ろしいほどの美を感じながら眺めていた作者は、やがて立ち去ろうとした時に、「ふり向いてはいけない」と言われたのに「ふり返った」ばかりに、塩の柱になってしまったという旧約聖書の逸話を思い出したのか、開けてはいけないと言われたのに開けてしまった「パンドラの箱」の逸話を思ったのかもしれない。
掲句の「さくら」は、ふり向いたら「何かうしなふ」ほどの美の魅力、あるいは魔力に取り憑かれてしまうかもしれないと麻紀は感じたのだ。
嶋田麻紀の自註現代俳句シリーズの中で「桜の花は不思議。優しいかと思えば、怖ろしい。密集しているかと思えば、潔く吹き散ってしまう。」と述べている。
桜といえば、坂口安吾の短編に有名な『桜の森の満開の下』があり、「桜の林の花の下に人の姿がなければ怖ろしいばかりです」の一行がある。この「怖ろしい」が、桜の本質であろう。だが、「怖ろしい」「恐ろしい」とは、所謂「こわさ」だけでなく、桜には圧倒的な美があるから「畏敬の念を感じ」させるという意味合いもあると思う。
嶋田麻紀(しまだまき)は、昭和十九(1944)年、茨城県生まれ。大学時代の昭和三十八年から四十四年までの六年間を後に俳句の師となる渡辺水巴門の菊池麻風の家に下宿する。こうした素晴らしい俳句的環境の中で卒論は渡辺水巴であった。やがて、麻風主宰の「麻」創刊に参加し師事する。昭和五十七年、麻風師の逝去後に推されて「麻」主宰となる。
麻紀俳句には、対象物を余裕をもって楽しんでいる大らかな眼差しがある。たとえば『無重力』集中の〈幸せのぎゆうぎゆう詰めやさくらんぼ〉など知の部分もあるが、「さくらんぼ」たちが生き生きと跳ねるようである。
『史前の花』から、メルヘンチックで楽しい一句を紹介しよう。
オリオンやファラオの夢のまばたきに