第四百五十五夜 菅原師竹の「安居」の句

 上村松園は、明治生まれの日本画家で、「一点の卑俗なところもなく、清澄な感じのする香高い珠玉のような絵」を念願として、女性の目を通して女性を描き続けた。代表作に『焔』『序の舞』他。
 著書に『青眉抄』がある。その中の「友人」から一部抜粋させていただく。
 
 私の友人は支那の故事とか、日本の古い物語や歴史のなかの人物である。
 小野小町、清少納言、紫式部、亀遊、税所敦子――そのほかいくらでもある。
 楊貴妃、西太后、――数えればきりがない。
 心の友は永久に別れることのない友である。
 
 私は友人に逢いたくなると画室に入って、その人たちと対座する。
 
 彼女たちは語らない。
 私も語らない。
 
 心と心が無言のうちに相通じるのである。
 私はたのしい友人をこのようにしていつも身近に置いている。
 だから、たくさんの友人を持っていると言ってもいいのかも知れない。
 
                     (上村松園に著書『青眉抄』より)
 

 今宵は、小澤實編著『秀句三五〇選 友』から作品を紹介してみよう。友は、人間ばかりとは限らない。

  画鬼詩魔に説く百日の安居かな  菅原師竹
 (がきしまに とくひゃくにちの あんごかな)

 画鬼とは、絵を描くことしか考えない人。詩魔とは、詩や俳句しか考えられない人。画家も詩人も自我が強いから他人の言うことなど聞く耳はもたない。「百日の安居」というのは、およそ3ヶ月もの仏道修行のことである。
 
 句意は、こうであろうか。画鬼も詩魔も実際に存在するものではないから、おそらく自分の俳句に迷ったときに心に現れたのが画鬼と詩魔の会話だ。画鬼は詩魔に、「よく見て描写をすると、作品はよくなるよ」と、アドバイスしていると思った。
 安居という長い仏道修業の間の心の葛藤をこのように表現したのが「画鬼詩魔に説く」であろうが、じつは、詩魔は俳人である作者だ。詩魔である作者にとって、画鬼は貴重な友なのである。【安居・夏】
 
 菅原師竹(すがわら・しちく)は、文久3年(1863)-大正8年(1919)宮城県登米(とよま)の人。はじめ旧派俳諧(はいかい)に属したが、日本派の俳句を知り、明治38年から新聞「日本」に投句、河東碧梧桐の指導を受けた。

  憂きことを海月に語る海鼠かな  黒柳召波
 (うきことを くらげにかたる なかこかな)

 句意は、海鼠が海の底にすむ暗さや哀しさを、呑気そうに海中をぷかぷかと気ままに泳いでいるようにみえる海月に話していましたよ、となろうか。
 
 動けない海鼠の憂鬱は大きいかもしれないが、海月だって辛く侘しいことがあるかもしれない。海月と海鼠は海の友。人間も友の気持ちの全てを知っていることはないし、理解できるわけではない。どんな友も、互いに違うところが魅力なのだから。【海鼠・冬】
 黒柳召波(くろやなぎ・しょうは)は、享保12年(1727年)-明和8年(1772)、江戸時代中期の俳人である。与謝蕪村の門人。

  手をあげて此世の友は来りけり  三橋敏雄
 (てをあげて このよのともは きたりけり)

 句意は、向こうから手をあげて友が来ましたよ。戦争で沢山の友を失くしたが、手をあげて来た友は此世の友ですよ、となろうか。
 
 「此世の友は」の「は」は、二つ以上の判断を対照的に示す係助詞。作品には、もう一方の此世にいない友のことは詠み込まれてはいないが、係助詞「は」としたことで伝わってくる。
 この句の「友」は、生者と死者である。【無季】
 
 私たち俳人は、さらに、俳人が友である以上に、俳句そのものが生きる相棒になってしまっている「友」ではないだろうか。