第四百五十八夜 高浜虚子の「余寒」の句

 『立子へ抄』は、次女星野立子が主宰する「玉藻」に創刊号(昭和5年)から昭和34年まで30年間書き続けた「立子へ」は、俳句の作り方、読み方、折々の感懐、回想など虚子が興のおもむくままを記した俳話集。解説は今井千鶴子。
 立子への愛情に満ちた言葉の端々に虚子の深い心がうかがわれる一書で、筆者の私も、側に置いている。
 一篇を紹介してみよう。
 
   ほのぼのとした勇気
   
 「あきらめ」という文章に書いたように、俳句という詩は一応人生に対しあきらめの上に立って居るものとも言えるのであるが、しかしながらそればかりではない。
 冬が極まって春がきざすという天地自然の運行とともに、あきらめというものの果に自ずから勇気が湧いて来る、その勇気の上に立っているものとも言える。生滅滅已(しょうめつめつい)の人生とあきらめはするが、その底の方からほのぼのとした勇気が湧いて来て、それが四季の運行に心を止めて、それを諷詠するという積極的の行動である。
 あきらめきって何もしないのではない。あきらめた上に生じた勇気が俳句の行動となって現れ来るのである。俳句は消極的な文学ではなくて積極的な文学である。そうしてその勇気は人生に対する行動の上にも及ぶ。(昭和26年3月)
 
 本日12日は、曇りがちであったからか、昨日までとは違う寒々とした冷えが底から伝わってくるような日であった。一筋縄ではいかないのが春であり、三寒四温といわれるように寒さと温かさが交互にやってきて、やっと春らしくなる。
 
 今宵は、高浜虚子の「余寒」の作品をみてみよう。
 
  鎌倉を驚かしたる余寒あり  『五百句』
 (かまくらを おどろかしたる よかんあり) 

 次のように、虚子の「自句自解」(俳句外国語訳注釈原文)がある。

 「 鎌倉を・・鎌倉という場所を、
   驚かしたる・・驚かした、
   余寒かな・・春の寒さがあった。
 鎌倉といふところは、寒さが強くない所だと考へてをつたが、春になつて、もう大分暖かになつた自分だのに不意に又寒さが襲つて来た。鎌倉に住んで居る人を驚かしたのでありはするが、それを「鎌倉を驚かし」といつたところが俳諧的である。」と、書いている。
 
 普通の会話なら、「まあ驚いたわ。まだ、鎌倉がこんなに寒いなんて」となり、驚くのは個々の人間だ。
 だが虚子は違った。「鎌倉を驚かせるほどの寒さでしたよ」となる。驚いたのは鎌倉に住む人たちみんなであった。人間でなく鎌倉の地が驚いたという詠み方が擬人法である。寒さが驚かしたのが鎌倉の地であったことで、まさに、途方も無いほどの大きな捉え方と言えようか。
 大正3年2月1日、虚子庵での作。
 
 虚子一家が東京麹町を離れて鎌倉由比ヶ浜に移転したのは、明治43年12月のことで、それ以降ずっと鎌倉住まいであった。鎌倉への転居は、腸チブスに病んだ虚子の養生のための転地であったが、それよりも、次女立子が病弱であったことが大きかったという。
 東京よりも暖かな地の鎌倉に春が来た。心も浮き立つような思いで迎えた春であったが、突然のような寒さが訪れた。
 こうしたことが背景になって詠まれた作品である。