第四十三夜 水原秋桜子の「啄木鳥」の句

  啄木鳥や落葉をいそぐ牧の木々  水原秋桜子『葛飾』

 この作品には「啄木鳥」(秋)と「落葉」(冬)と二つ季題があるが、「啄木鳥や」とあるからにはこちらが主題であろう。高浜虚子の『新歳時記』には「秋の林を歩いていると、丹念にコツコツ、コツコツと樹幹を何か堅い、尖ったものでつつく音が聞こえてくることがある。かうして樹に孔をこしらえて、中の虫を捕食するのである。」とある。
 
 鑑賞をしてみよう。

 啄木鳥が、牧場の木々の幹を激しくつついて音を立てている。つつかれた幹は木の葉を散らしている。啄木鳥の音が、慌てて秋から冬へ季節をいざなっているかのようである。啄木鳥は、渡り鳥ではなく留鳥である。秋の季題としたのは、冬になる前に、たくさんの餌を食べておきたいという生き物の習性が顕著になる時期だからであろう。
 「落葉をいそぐ」は、晩秋のひっきりなしに降る落葉であるが、啄木鳥がたたいて落葉しているようにも感じる。秋桜子の風景句は明るく、万葉調から得た調べも軽快でシャープ、若々しい表現と抒情的な句は当時新鮮で魅力的であった。
 
  水原秋桜子(みずはらしゅうおうし)は、産婦人科の医学博士。大正七年に虚子の著作『進むべき俳句の道』を読んだことがきっかけで俳句の道に入った。虚子との出会いは大正十年の五月。翌十一年に中田みづほ、富安風生、山口青邨などと東大俳句会を設立。同年に東大に入学した誓子も入会、素十は翌年の入会である。秋桜子は「破魔弓」の選者をしていたが、「破魔弓」は昭和三年に「馬酔木」と改名して秋桜子主宰となった。
 
 次のことを一度整理しておきたい。
 
 高浜虚子が、昭和三年に、俳句は「花鳥諷詠詩」であると提唱し、方法論を「客観写生」とした経緯である。
 大正初期のホトトギス第一期黄金時代を築いたのは、ホトトギスに連載の「進むべき俳句の道」で虚子が取り上げた渡辺水巴、飯田蛇笏、村上鬼城、原石鼎、前田普羅たちであった。彼等は各々の個性を発揮したが、雑詠欄へ投句してくる多くの俳人は、真似をしたような主観的な作品が多かったが、
虚子は、主観句の短所を指摘しながらも、最初の頃は主観的な作品を認めていた。
 だが主観句の安易な横行を見た虚子は、改めて写生の重要性を説いた。虚子自らも客観写生を実践しながら第二期黄金時代の作家四Sの水原秋桜子、高野素十、阿波野青畝、山口誓子を輩出するに至っている。作品の成果を見た虚子は、俳句は「花鳥諷詠詩」であると提唱し、方法論を「客観写生」としたのだった。
 
 虚子の「客観写生」は(客観写生─主観─客観描写)という推移をたどるものだが、写生の技を磨くことにある。秋桜子は葛飾などに吟行に出かけてはよく写生をした。昭和五年から始まったホトトギスの「武蔵野探勝」の吟行句会は、秋桜子の風景句に触発されたところが大きかった。
 
 大正十四年から始まった「ホトトギス雑詠句評会」において、昭和四年六月号掲載の素十の〈朝顔の双葉のどこか濡れゐたる〉の句評は秋桜子の担当であった。秋桜子は、「素十君の欠点を求めれば詩の不足に陥るおそれがあることだと私は思う。素十君にして見れば詩の過剰程いやらしいものはないというのだろう」と、互いの句の違いを述べた。
 そのとき虚子は、朝顔の双葉を描いて生命を伝え得たものは、宇宙の全生命を伝え得たことになるのだと、きっぱりと素十の作品を推賞した。
 
 昭和三年ホトトギス誌上の「秋桜子と素十」という文で、虚子は「秋桜子の句は調べと構成による写生であり、素十の句を厳密な意味における写生と云ふ言葉に当てはまると思ふ」と書いた。そして虚子は、秋桜子の句が、完成された芸術品といってもよく客観写生句の一方向であると認めつつも、頭で構成したものであり、虚子の目指す客観写生の極致ではないとした。
 そして秋桜子は、主宰となった「馬酔木」誌上に「自然の真と文芸上の真」を発表して、次のように反論した。
 「自然の真はよき俳句の鉱で、それを観たままに述べるということは厳密に言えば自然模倣主義……(略)文芸上の真に於いては、作者の個性が光り輝いて居らねばならず、そのためには創造力を養い、想像力を豊富にせねばならぬ。而して主観を文字の上に移すべき技巧を錬磨することを必要とする。」

 この論文がきっかけとなり、写生観の違いを明確にした秋桜子は虚子の下を離れることになる。馬酔木が拠点となった、反ホトトギスを旗印とした新興俳句という俳句革新運動は、圧倒的に若い学生や知識層の俳人たちに支持されてゆく。
 今から思えば、互いの行き違いもあっただろうし、新しい俳句の流れが出てくることは又歴史上の必然の繰返しと言えるかも知れない。
 
 美しさを希った、完成された、調べのよき作品を紹介しよう。
  
  春惜むおんすがたこそとこしなへ