第四百六十夜 金堂淑子の「バレンタインの日」の句

 2月14日の今日はバレンタインデー。ローマの司教、聖バレンタインが殉教した日であるが、アメリカに生まれた習慣からこの日は女性から恋を打ち明けてよい日となりチョコレートを贈る。
 
 アメリカから入ってきたバレンタインデーの風習は戦後しばらくしてからで、私の大学時代にはもう流行っていた。相当どきどきして、当時付き合いはじめていたボーイフレンドに渡した思い出がある。
 残念なことに、筆者の私は俳句はまだ始めていなかったので、俳句に登場するのは息子と夫。義理チョコである。
 
 この時期が嬉しいのは、この時にしか輸入されない外国製の美味しいチョコや、上等の生チョコがデパートに行けば目移りするほど溢れていることである。
 
 今宵は、バレンタインデーの俳句を紹介してみよう。

  紅茶熱しバレンタインの日と思う  金堂淑子 『新歳時記』平井照敏
 (こうちゃあつし バレンタインのひとおもう)

 句意は、家事の一仕事が済んで、熱い紅茶を入れて飲んでいるとき、ああ、今日はバレンタインの日だわ、とふっと思い出していましたよ、となろうか。

 戦前戦後の女性にとって、バレンタインの日というのは恋心の問題というよりも、女性も、誰かを愛したり、何かを自発的にできると思わせてくれる日なのではないだろうか。選挙権を女性が手に入れたのは戦後の昭和21年(1946)のことであった。
  
 金堂淑子さんは、「九年母」の俳人で、戦後の作品であるというだけで詳しい調べはつかなかった。

  秘めしままバレンタインの過ぎにけり  加藤あけみ 『蝸牛 新季寄せ』
 (ひめしまま バレンタインの すぎにけり)

 句意は、恋に落ちてしまったかなと思う人がいる。でもまだ打ち明けてはいない。チョコレートをあげたいけれど勇気が出ない、と思いつつ、バレンタインの日は過ぎてしまいましたよ、となろうか。
 
 加藤あけみさんは「花鳥来」「青林檎」の仲間で、創刊以来であるから既に30年が経っている。句会、虚子『五百句』輪講もご一緒した。俳句の仲間はプライベートな話はあまりしないので、勿論、恋の話もお聞きしたことはない。
 この句は、「花鳥来」に掲載されたものであろう。『蝸牛 新季寄せ』で作品を集めているときに出合った句で、句集や歳時記などを探したが、若く明るい作品はなかったので、ひと目でこの句を好きになった。

  老夫婦映画へバレンタインの日  景山筍吉 『蝸牛 新季寄せ』
 (ろうふうふ えいがへ バレンタインのひ)

 句意は、老夫婦が、この日がバレンタインの日だと知って、映画でも観に行きましょうとなったのですよ、となろうか。

 何歳ぐらいからを老夫婦というのか、それぞれであろうが、いつの間にか、ドライブに行くのも、買物も、家でテレビを観る番組も同じであることが多くなった。老夫婦になってから、ときには派手な論争になるにしても、会話の多いことはすばらしいことだと思っている。それに、矛(ほこ)の収めどきも互いに熟知している。
 
 この俳句の素晴らしさはお洒落なことだ。バレンタインの日に、おそらく白髪の2人が行く映画も洋画のような気がする。
 景山筍吉(かげやま・じゅんきち)は、高浜虚子に師事し「ホトトギス」の同人。敬虔なカトリック信者。

  ヴァレンタインデー紅梅蕾ひしひしと  山口青邨 『日は永し』
 (ヴァレンタインデー こうばいつぼみ ひしひしと)

 句意は、2月14日のヴァレンタインデーの日、雑草園と名付けた青邨居の庭の紅梅の枝には蕾を付けていた。開いた花びらよりも濃い紅色の蕾は少しの隙間もないほどびっしりとしていましたよ、となろうか。
 
 「Va」を「ヴァ」と発音するままに表記するのが、山口青邨。平仮名と片仮名の中に「紅梅蕾」だけが漢字にしたことで、一本の枝に、ひしめくように付いた濃い紅色の蕾が見える形に仕上がっている。
 こうした句風も、青邨の美意識の一つである。
 
 バレンタインの日があることは素晴らしい。いくつになっても人が人を好きになることって素晴らしい。ときに、甘やかな気分に和むことって素晴らしいことだと思う。