第四百六十一夜 あらきみほの「三月十一日」の句

 昨夜は2月14日のバレンタインデー。浮かれる当てなどないのに浮かれた1日が終わり、私より先に私の枕で寝込んでしまった犬のノエルに「どいてネ」と言って、寝入った途端、ドーンと落ち込むような縦揺れの地震が起きた。
 
 ええっ! もしや10年前のような大地震? しばらく呆然とした後、家族の一人一人に声をかけたり、夫の部屋のテレビで話し込んだりしているうちに、もう2度目の揺れはなさそうね、と、2階の部屋に戻った。
 2階は私の書斎もあって、本が散乱していた。10年前は、パソコン周りの資料が散乱していたが、今回はそれほどでもなかった。だが片付けは明朝にしよう! 
 
 用心深い性格でもなく、災害の具えが万端というマメさもない私が、東日本大震災以降、サイドテーブルに置くようになったのは懐中電灯、スマホ、メガネである。
 
 今宵は、平成23年3月11日に詠んだ東日本大震災5句から思い出してみよう。
 
  本が飛び紙飛ぶ三月十一日  俳誌「花鳥来」
 (ほんがとび かみとぶ さんがつじゅういちにち)

 句意は、本箱から本が飛び散り、コピーしていた資料がひらひら飛び散る3月11日でしたよ、となろう。
 
 東日本大震災(ひがしにほんだいしんさい)は、2011年(平成23年)3月11日14時46分18.1秒に発生した東北地方太平洋沖地震による災害およびこれに伴う福島第一原子力発電所事故による大地震のこと。
 その日、菅生沼の白鳥がそろそろ帰る頃なので見に行こうかと思いながら、なぜか、夕御飯の準備をしたりしてぐずぐずしていた。

 その時だ。揺れ始めたのは。
 横揺れがいつまでもいつまでも続いて、いつ止むのだろうと思っていた。ソファの上にいた黒ラブのオペラがもっそりと起きて、足元に寄ってきた。夫が戻ってきた。子どもたちも側へきた。
 わが家には本だけはいっぱいあるが、下の部屋も上の部屋も、本箱から飛び出るように落ちてきている。収まってから片付けようと思った。いや、一度は階下は片付けたが、再び落ちてしまったから、収まるのを待った。
 
  また転けし母の位牌よ春の地震
 (またこけし ははのいはいよ はるのない)

 揺れが漸く収まったので、2階の様子を見に行った。まずは仏間へ。位牌も写真も倒れていた。地震が死ぬほど嫌いな母だったので、「驚いたでしょう、もうだいじょうぶよ」と、位牌を起こした。
 
 ひどかったのは、私の書斎だ。パソコンは、資料と本で埋もれてしまっていた。まずは、パソコンを掘り出した――まさに土を掘り返すようであった。ともかく、外部との連絡は、電話と同じくらいにメールは重要だから、掘り返した。

  乳いろの辛夷や地震の夜が明くる
 (ちいいろのこぶしや ないの よがあくる)
 
 夜、外に出てみると春の月(満月ではなく二十日月ほど)が睨んでいるようであった。道路の向こう側は停電で、黒いほどの夜空に春の月が怖いほど美しく煌々と輝いていた。
 夕飯は、ガスも電気も停まっていたが、キャンプによく行く息子が、キャンプ道具で米を炊き、停電中なので冷蔵庫の整理も兼ねておかずも作ってくれた。助かった。
 
 そのような晩でも、睡眠の才能だけはある私は、よく眠り、翌朝には車で様子を見に出かけた。早朝のコンビニではすぐ食べられるものは棚から消えていた。
 そのような朝でも、辛夷の花は乳白色の清新な美しさを見せていた。自然は、どんな場合でも「時」を忘れないのだと、偉いなと感動した。

  被災地の端つこにゐて春愁ひ
 (ひさいちの はしっこにいて はるうれい)

 この句は、深見けん二先生が二重丸をくださって褒めてくださった。茨城県守谷市は、大地震の震源地からは何百キロも離れていた。震源地近くでは、大津波があり、流されて死者が出た。やがて福島第一原子力発電所の事故が判明した。震災に逢われた方々の大変さは、みな違っていたが、日を追うごとに被害の甚大さが判明し、東北から関東一体の哀しみとなった。

  水温む水の底より泡ひとつ
 (みずぬるむ みずのそこより あわひとつ)
 
 この句は、しばらくした4月の牛久沼の脇の小川である。泡は生きていた。