第四百六十二夜 正岡子規の「鯨つく」の句

 2月16日は日蓮大聖人御誕生会。そして今年は、承久4年(1222)に生まれた日蓮の生誕800年であるという。
 日蓮(にちれん)は、鎌倉時代の仏教の僧。鎌倉仏教のひとつの日蓮宗(法華宗)の宗祖。
 『日蓮のことば365日』(東方出版)より、この日に選ばれた言葉をみてみよう。
 
 潮(しお)のひるとみつと、月の出づると入(い)ると、夏と秋と、冬と春との境には必ず相違することあり。凡夫(こぼ)ぼんぷ)の仏になる又かくの如し。必ず三障四魔(さんしょうしま)と申す障(さわり)いできたれば、賢者は喜び愚者は退く。 『兵衛志殿御返事(ひょうえさかんどのごへんじ)』(1403)
 
 すべて物事の展開には変わり目・区切り目がある。その節目を踏台として活かすところに飛躍があり展望が開ける。潮の干満、月の出入、四季の推移なども一見なにげなく運行するかのようだが、子細に観(み)れば両者を分かつ境がある。世事万般、逆境と順境、災と福、苦と楽など、相互に混入・乱入し変転してやまぬ。順風に逆風がすさぶ。前後の相違、境目を正視し弁(わきま)えることによって発展と後退がある。凡夫から仏への転回は、魔障奮起(ましょうふんき)して普通の相違をこえる。賢者は勇気百倍し、愚者は意気阻喪(いきそそう)する。
 
 「冬は必ず春となる」も、日蓮の言葉であるが、宗教を越えて、大自然の移行を眺めていると頷ける言葉である。冬から春になるには「三寒四温」の季題になっている言葉があるように、「あったかいね、春だねえ」などと、オーバーコートを早々と薄物のコートに入れ替えしてしまったりすると、突然、冬の寒さが訪れて来たりする。
  
 今宵は、正岡子規の「日蓮讃」という前書のある作品を紹介してみよう。
 
  鯨つく漁夫ともならで坊主かな  正岡子規 『子規歳時』越智二良 松山子規会叢書
 (くじらつく ぎょふともならで ぼうずかな)
 
 句意は、千葉の漁村で生まれた日蓮であったが、親の家業を継ぐことはなく、仏道修行をして坊さん(僧侶)になりましたよ、となろうか。【鯨・冬】
 
 『子規歳時』で、越智二良は、こう書いている。
 「子規は日蓮とフランクリンを礼賛していた。日蓮については、その宗旨に心服するというのではなく、千辛万苦に屈せず一難を経るごとに勇気百倍し、初一念を貫徹して法華の定礎を築いた勇猛心に共鳴したのだと赤木格堂はいう。」と。
 フランクリンは、アメリカのベンジャミン・フランクリン。子規の生存中には『フランクリン自叙伝』が日本で発売されていた。子規は、めげない生き方に共鳴し、夢中になって読んだという。
 子規は、晩年の8年間は脊椎カリエスに苦しみ通しで、掲句を詠んだ明治35年というのは寝たきりの日々で、這っても一人ではトイレに行くこともできずに母と妹の律の手を借りていた。
 病床には昼夜交代で、俳人の高浜虚子や河東碧梧桐、歌人の伊藤左千夫や長塚節たちが見守っていた。
 足は、膨れ上がって動かせない。これほど皆の助けの中であったが、痛いのは子規で、堪えるのも子規自身である。その病床で子規は、俳句革新、短歌革新を成し遂げたのだった。
 日蓮の、どのような苦境に立とうとも負けない生き方と勇猛心に励まされながら、子規も生き切ったのであった。
 辞世の句は、〈糸瓜咲て痰のつまりし仏かな〉〈痰一斗糸瓜の水も間にあはず〉〈をとゝひのへちまの水も取らざりき〉の3句。亡くなる前日、板の上の大きな半紙の3句を書いた。
 その夜、日付が変わった明治35年9月17日に死去、満34歳であった。