第四百六十五夜 寺田寅彦の「光る風」の句

 昨夜は寒の戻りのような寒さであったが、今朝の晴れわたった空の青さの美しいこと。畑に行きたがっていた夫を無理矢理に誘って、大喜びの犬のノエルを連れて、蛇沼の雑木林へ出かけた。
 
 雑木林は、まだ木の芽が吹いていなくて、クヌギやナラや山ザクラの高木たちは、すらりとした幹を天に伸ばし、万朶の細枝は天に網の目を見せていた。  
 スマホを向けてシャッターを切ると、そのとき気づいた。やわらかな風とともに太陽の光が当たっている幹や細枝は、みな白く輝いているではないか。

 3月の初めになると、おそらく私の関心は膨らみはじめた木の芽の方へ向けられるのではないかと思った。
 今日は、雑木林の幹に光の当たる「しろがね」に輝く幹と、光の当たらない側の「くろがね」の対比の美しさをひたすら眺めていた。わが家の近くにも雑木林はあるが、広くて、周りが沼になっているので、沼に反射する光も加わっているから輝きが一層増しているのではないだろうか。
 午前のやわらかな光の、この蛇沼に来てよかった。

 今宵は、『山本健吉 基本季語500選』より「風光る」の作品をみてみよう。

  文鳥や籠白金に光る風  寺田寅彦 
 (ぶんちょうや かごしろがねに ひかるかぜ)

 句意は、文鳥が鳥籠に入っています。風が吹いて鳥籠に当たると、鳥籠は「しろがね」に光っていましたよ、となろうか。
 
 「春光る」とは、春になってだんだん日差しが強くなると、晴れた明るい景色の中、吹く風が光るように感じられる。光風ともいう。
 今日の蛇沼で感じた「白く輝いている」は、本来は茶色の幹が「白く見えた」ということであったが、風が光るというのは、風に当たったものが光って白く見えることであろう。
 
 物理学者である寺田寅彦の目にも、飼っている文鳥の籠が光る風のなかで「白金」色に見えたのだ。「白金」の読み方は、「はっきん」ではなく、この場合は「しろがね」だと思う。

  風光る閃きのふと鋭けれ  池内友次郎
 (かぜひかる ひらめきのふと するどけれ)

 句意は、風が光るときの光の一瞬の動きに、ふっと才知の鋭さを感じましたよ、となろうか。
 
 池内友次郎(いけのうち・ともじろう)は、作曲家で俳人。「ホトトギス」主宰の高浜虚子の次男である。作曲家としては勿論、俳人としても鋭い感性の持ち主である。
 「風光る」は、駘蕩とした春風の気分ではなく、ここでは素早く動く日光の明るい動きとして詠んでいる。

  風光り泥のひかりの大きな手  成田千空
 (かぜひかり どろのひかりの おおきなて)

 句意は、田んぼで草取りをしている景であろう。風が光ると、田の泥水にどっぷり浸かった手のひらは、光って一と回り大きな手に見えますよ、となろうか。

 成田千空(なりた・せんくう)は、青森に在住したまま、中村草田男の俳誌「萬緑」の創刊に加わり、草田男亡き後の主宰となった。
 この景は青森の田んぼだ。中七下五の「泥のひかりの大きな手」から、東北で米作りに励んでいるお百姓さんの、自慢の手のひらであることを感じさせる。

 早春の季題はたくさんあるが、「風や光が多いことを改めて知った。冬から春、春から夏、夏から秋、秋から冬、とそれぞれ特色があるのだろうか。