第四百六十七夜 鈴鹿野風呂の「花あしび」の句

 馬酔木の花の咲く頃となった。馬酔木は、「あしび」とも「あせび」とも言う。
 哲学者・評論家の土田杏村は「あしびの花」を、『花の名随筆2 二月の花』の中で次のように書いている。
 
 馬酔木の花を見ると、大抵の人が少しさびし過ぎると考へるであらう。その色つやも大して立派だとは言ふまい。けれどもそれは馬酔木の古木が本当に咲き盛つてゐるところを見ていないからである。一丈以上にも伸びた古木が山一面にさき続いてゐるところ。それは実際何とも言へないはでやかなもので、だれでもちよつと、この花叢を馬酔木だとは信じまい。
 馬酔木の花の美しいのは、奈良である。私はこの春用事があつて幾度となく奈良へ出かけたが、一箇月の余少しの衰へも見せないで咲き盛つてゐる馬酔木の花を見ることは、その間の一つの楽しみであつた。馬酔木の古木は春日社の一の鳥居から博物館あたりへかけての広つぱに見られる。が、この辺のものは大抵孤立した樹叢だ。東大寺から三月堂、手向山神社あたりにかけて見られるものは、木のたけも喬木のやうに高く、それが一面に密集してゐるから、その花叢の美しいことも格別で、とてもそれへは普通の馬酔木を見ての感じを当てはめることが出来ない。ここの馬酔木だけは全く奈良の見ものである。
 
 今宵は、「馬酔木の花」の作品をみてゆこう。

  百済観音背高におはし花あしび  鈴鹿野風呂
 (くだらかんのん せいたかにおわし はなあしび)

 句意は、法隆寺金堂にある百済観音像はすらりとした長身の仏像です。この法隆寺にも背高の花馬酔木が咲いていましたよ、となろうか。
 
 中学校の修学旅行は奈良・京都に行ったが、ただわくわくしていて、覚えていない。その後の旅でも詳しくは覚えていないが、上野の東京国立博物館に展示されたときはじっくり正面から向き合った。
 殆どがクスノキ製という仏像の、やわらかな線に見とれたことを思い出している。
 背高とはどれほどかと言うと、元禄11年(1698年)の『法隆寺諸堂仏躰数量記』には「虚空蔵立像 長七尺五分」とあり、後の、『特別展百済観音』図録等によれば、210.9cmとある。
 
 作者の野風呂は、百済観音を拝し法隆寺の周りを散策すると、奈良でしか見ることのない、百済観音を感じさせる背高の、一見淋しさも感じさせる馬酔木の花叢に出合ったのだろう。
 
 鈴鹿野風呂(すずか・のぶろ)は、高濱虚子に師事、「ホトトギス」同人。大正9年、「京大三高俳句会」を母体として日野草城らとともに「京鹿子」創刊。
 
  月よりもくらきともしび花馬酔木  山口青邨
 (つきよりも くらきともしび はなあしび)

 句意は、夕月だろうか夜の月だろうか、奈良に遊んだ山口青邨は、辺りに咲く白く小さなつぼ形でふさ状に垂れ下がった花馬酔木を見上げると、小さな白い花の灯は、月よりも暗く感じましたよ、となろうか。

 だが青邨は、花馬酔木を「月よりもくらきともしび」と詠んではいるが、しっとりした小さな灯となった一かたまりの花を、決して淋しいとは感じていないように思えてきた。奈良では多くの仏像を見ただろう、その残像とともに眺める花馬酔木は、青邨の心をやさしく潤していたのではないだろうか。

 東京練馬に住んでいたわが家にも馬酔木が植えてあったが、大木ではなかった。「馬酔木」は馬が酔う木とある。この木には葉に毒があり、食べると馬が酔ったようになるので馬酔木というそうだ。