第四百六十八夜 高浜虚子の「春寒」の句

 昭和27年2月22日は、高浜虚子の78回目の誕生日である。
 
 昭和25年7月には、虚子は眩暈を起こしたが1週間ほどで回復した。その年の12月中頃に、再び眩暈を起こした。「又少し頭を悪くして2週間ばかり寝ておりました。左の手足に少し異常を感じ、舌が又多少曲つた位のことでありまして、手足の故障はすぐになほり、舌も昨今ではもう殆どなほりかけて居ります。(略)」と、『虚子消息』に書かれている。
 消息欄とは、ホトトギスの最後に書かれた「あとがき」のようなもので、子規の頃からずっと虚子が綴ってきた。言わば、虚子の筆によるホトトギスの歴史を綴ったものである。
 
 12月の虚子は、新年のための俳句を作り、句会にも参加している。

  舌少し曲るり目出度し老の春  12月13日 諸方より新年の句を徴されて
  今年子規五十年忌や老の春    〃
  去年今年貫く棒の如きもの   12月20日 新年放送
  この女此の時艶に屠蘇の酔    〃
  見栄もなく誇もなくて老の春   〃
  
 「老の春」は、初めて虚子が新年の季題として詠んだものである。この8年後の昭和34年3月8日に虚子は亡くなるが、病名は脳幹部出血であったという。おそらく、25年に倒れたときも軽い脳出血ではなかったろうか。
 脳幹部に届いてない出血であれば、薬で、出血は消えるという。「脳幹に至らなくてよかったね。」と、医者から言われて2週間で退院した人を知っている。

 しかし、この頃から「老の春」の作品を多く詠んだということは、老の訪れは確実であることを自覚したのであろう。
 そして、3句目の〈去年今年貫く棒の如きもの〉は、虚子の作品の中でも人気が高い句である。季題の「去年今年」とは、「人々は去りゆく年を惜しみ、年が明けると昨日はすでに去年(こぞ)であり、今日ははや今年である。その慌ただしい時の流れの中で抱く感懐をいう。」であるが、年を取るにつれようやく理解できたとき、大好きな1句となった。
  
 昭和26年3月には、虚子は、「ホトトギス」の雑詠選を長男年尾に譲った。同月、虚子は次女星野立子の「玉藻」に「俳諧日記」を載せはじめ、翌昭和27年には、「玉藻」に俳話を載せはじめ、俳誌「玉藻」をさらに育てはじめてゆく。
 
 今宵は、虚子が自身の誕生日を詠んだ句をみてみよう。

 1・この道も我が道梅の枝くぐり  『虚子一日一句』星野立子編
 (このみちも わがみちうめの えだくぐり)
  
 星野立子の注釈がある。
 「広くもない庭に散歩道が出来ていた。それには、中辺路(なかへじ)とか大辺路(おおへじ)とか名がついていた。電車道に平行した垣に沿うて二尺程の道があつた。椿の下を二三歩登り、一方は裏、片方は庭の中央に出られるのであつた。」と。
 
 江ノ電の線路際にある虚子庵の、そう広くない庭に道を作り、虚子の散歩道としていた。昭和8年4月、虚子一行が南紀と京阪に遊んだ、その熊野古道に因んでつけた名が中辺路と大辺路であった。梅の木をくぐったり、椿の下を登ったりして楽しんでいる様子が見えてくる。

 2・春寒きわが誕生日合ッ点じや  『七百五十句』
 (はるさむき わがたんじょうび がってんじゃ)

 句意は、2月22日というまだ春の寒さの残る日に私は生まれました。この日に生まれたことも良しと承知していますよ、となろうか。

 1も2も、虚子庵で行われた「句謡会」に投句した作品である。「句日記」には「句謡会、草庵、わが誕生日」という詞書とともに2句が載っている。
 1の句は、星野立子編『虚子一日一句』の2月20日の誕生日に載っている。
 2の句は、『七百五十句』に載っている。