第四百七十一夜 桑本螢生の「春濤(はるなみ)」の句

 桑本螢生さんの生地国東市は、瀬戸内海の大分県側の海辺であり、つねに「海の響」は身近にあった。句集名の『海の響』は、ジャン・コクトーの1行詩「私の耳は貝の殻 海の響きを懐かしむ」(堀口大学訳詩集『月下の一群』)から採ったものだという。

 今宵は、第2句集『海の響』より作品を紹介させて頂く。

  春濤のしぶく高さに六角堂
 (はるなみの しぶくたかさに ろっかくどう)

 句意は、春濤が岩に打ちつけるしぶきと同じ程の高さに、六角堂があるのですよ、となろうか。

 ここは、茨城県五浦海岸にある岡倉天心旧居である。私も2回訪れたことがあるが、六角堂からの波音に惹かれたことが大きかった。六角堂は、旧居の庭を下ったところにある。法隆寺の夢殿を模して造り、聖徳太子がその中に籠もったように、岡倉天心も、東京から来る度に六角堂に籠もったという。とても狭いが、足を伸ばして充分に安らげる堂である。ガラス張りなので、少し入り江の岩も岩に打ちつける波の飛沫も濤音も間近にできる。
 六角堂の中には入ることはできないが、螢生さんは、心ゆくまで春濤と向き合っていたことだろう。
 中七の「しぶく高さに」が、まさに六角堂からの太平洋の濤であると思った。
 
 まさか、大震災の津波を予感していたのではなかろうが、前書には、(10日後、東日本大震災の津波により消失)とあった。

  春寒し夜どほしあるく地震の街
 (はるさむし よどおしあるく ないのまち)

 句意は、東日本大震災の当日の夜のことで、3月11日の春寒のしかも夜の街を夜通し家まで歩いて帰ったのですよ、となろう。
 
 同じ結社「花鳥来」の仲間であり、季刊誌「青林檎」の仲間でもあるので、この作品の経緯も詳しく存じ上げている。
 螢生さんが大震災に遭遇したのは、奥様と外出中の表参道で、これから横浜の自宅へ帰ろうと渋谷へ向かうところであったという。アナウンスで電車が動かないことを知り、40キロを歩いて戻る決心をした。
 理由は、家に愛犬を留守番させたままだからという。犬は、飼主をじっと、ずっと待っている。それを知っている奥様は、日頃から足の痛みを抱えていたが、どうしても、歩いてでも帰りたかったのだ。
 お二人は、40キロの徒歩帰宅を実行した。帰宅は明け方近くであったが、犬も無事であった。勿論、お二人の夫婦間の信頼が増したことは言うまでもない。
 平成30年には〈枝豆や今宵は妻も飲むつもり〉の句が生まれている。
 
 1句目と2句目は、平成23年3月11日に起こった東日本大震災を含む作品である。
 次に、家族の作品をみてみよう。

  まだぬくき遺骨西日に抱き帰る
 (まだぬくきいこつ にしびに だきかえる) 

 句意は、火葬を終えて遺骨を入れた骨壷を抱いて西日の中を、まだぬくい骨壷だと思いながら、抱いて帰りましたよ、となろうか。
 
 お母様が亡くなられたときの作品である。掲句の「まだぬくき遺骨」の措辞の、「亡くなって骨になっても、まだ、母の温み」を感じていることに、ドキッとしたが、そうなんだろうな、とも思った。

  磴のぼるたびにこの児は蟻つまむ
 (とうのぼるたびに このこは ありつまむ)
 
 句意は、お孫さんであろう。この子は磴をのぼるたびに、目の前をゆく蟻をつまんでいますよ、となろう。
 
 じつに、ゆったりした視点でお孫さんの動作を眺めている。小高い地にある桑本家、大好きなお祖父ちゃんとお祖母ちゃんの家に行く途中だけど、石段を登るたびに、やっぱり蟻を見つけると、嬉しそうに蟻をつまんでいる。玄関先でお孫さんの来る様子を眺めている作者。こうした好奇心は素晴らしい。いい子に育つだろうな。

 かつて、螢生さんは「花鳥来」52号に「私の写生」という一文のなかでこう書いている。
 「的確で、かつ人と違った新しい表現を得るには、技術の問題だけでなく、対象を深く観察し何か独特のものを発見することが肝心であること、すなわち表現することは見ることであると気づく。」とあった。

 桑本螢生(くわもと・けいせい)は、昭和23年(1948)、大分県国東市の生まれ。本名は俊洋。早稲田大学第一経済学部政治学科卒。平成8年、勤務先の俳句句に入会、深見けん二に師事。平成11年、「花鳥来」入会。平成12年、「青林檎」。句集は『海の虹』『海の響』。現在、「花鳥来」会員、編集委員、「青林檎」同人、俳人協会会員、NHK学園非常勤講師。