第四百八十三夜 深見けん二の「犬ふぐり」の句

 昨夜の26日は、かなり丸かったので満月と思ったほどの朧月が出ていた。暦では、今宵が満月ということである。
 本日2月27日は、江戸時代からあった小石川御薬園が、1875年、文部省所轄教育博物館附属・小石川植物園と改称された日であるという。
 
 高浜虚子は、星野立子たちと小石川植物園に吟行に訪れていたという一文を読んだことがあった。
 「花鳥来」の例会でも、吟行したことがあった。
 また、東京に住んでいた頃、父が元気であった頃、よく誘って植物園を散策した1つが、護国寺から近い小石川植物園であった。この時期、入口を入って少し坂道になっている日当たりの良い場所に群生している犬ふぐりが印象的であったことを思い出す。
 
 広大な園は、江戸時代には小石川薬園として小石川養生所があり、赤ひげ先生という名医がいたという。
 私たちの年代では、映画『外科医』の撮影場所として園内の光景が浮かんでくる。原作は耽美派の泉鏡花、監督は歌舞伎役者であり舞踊家の坂東玉三郎。主演は貴船夫人役の吉永小百合と外科執刀医の加藤雅也。2人が出合って一瞬で恋に落ちたのが、この小石川後楽園のツツジが満開の頃であった。
 
 今宵は、「犬ふぐり」の句を紹介してみよう。
  
  跼みたるわが影あふれ犬ふぐり  『余光』
 (かがみたる わがかげあふれ いぬふぐり)

 句意は、群生した犬ふぐりの花にかがみこんで眺めていると、犬ふぐりの上に自分の影が覆いかぶさるほど溢れていましたよ、となろうか。
 
 犬ふぐりの花の1つ1つは小さくて可憐。その犬ふぐりの花をもっと近くから見ようと跼み込んだ姿であろう。けん二先生の影は、犬ふぐりの一叢をすっぽり隠してしまうほどの豊かな影だ。

  わが胸の星の数ほど犬ふぐり  『余光』
 (わがむねの ほしのかずほど いぬふぐり)

 句意は、犬ふぐりの小さな花たちは、わが胸にある星の数のごとくに沢山の花が咲いていますね、となろうか。

 高浜虚子に〈いぬふぐり星のまたたく如くなり〉がある。犬ふぐりの小花の1つ1つを星と捉え、咲いている姿を星が瞬いているようだと捉えている。
 けん二先生の「わが胸の星」とは、つねに胸に抱いている「詩のかけら」のようではないかと感じている。
 先生は、俳句は写生であり客観写生であると常々仰って詠んでいらっしゃる。「星の数ほど」という犬ふぐりの花の咲きようを、写生による描写をしているのだが、作品から溢れ出しているのは詩情そのものなのではないだろうか。

  閉じかけて夕日の中のいぬふぐり  『菫濃く』
 (とじかけて ゆうひのなかの いぬふぐり)

 句意は、犬ふぐりは今、夕日の中にいますが、じっと見ていると花はゆっくりと閉じかけているようですよ、となろうか。
 
 犬ふぐりは、夜は花を閉じている。私は、閉じかかっているところを見ていたことはないけれど、多くの花は、光量の関係で花びらを閉じるものが多い。クローバーの葉、カタバミ、チューリップの花もそうである。

  ガリバーの足が来てをり犬ふぐり  蔦 三郎 『ホトトギス 新歳時記』
 (ガリバーの あしがきており いぬふぐり)

 句意は、ガリバーのような大きな足がやってきましたよ、と犬ふぐりの小花たちの囁きが聞こえています、となろうか。
 
 『ホトトギス 新歳時記』の中に、楽しい発想の作品に出合った。
 この作品は、客観的にこの光景を眺めているのではなく、犬ふぐりの気持ちになって鑑賞すると、ガリバーの巨大さも犬ふぐりの花の小ささも伝わると思った。
 
 蔦三郎(つた・さぶろう)は、大正15年(1926)、徳島県生まれ。俳号の三郎は四国三郎(吉野川)より。「ホトトギス」の俳人。