第四百七十四夜 高浜虚子の「朧の夜」の句

 今日2月28日は、江戸初期の寛永14年10月25日に勃発した島原・天草一揆が、翌年の2月28日に終結した日である。 過重な年貢の負担に窮した、島原半島と天草諸島の島原藩と唐津藩の両領民が起こした乱の最期の舞台となったのが原城で、幕府側の松平信綱は兵糧攻めの持久作戦を行った。
 やがて食料が乏しくなった時、凄惨きわまる総攻撃がかけられ、夕方から翌朝まで続いた戦いは午前10時に終わり、本丸にいた天草四郎の首も挙げられ、生き残ったすべての老若男女はその場で処刑され、その数は1万8千に及んだという。
 
 私が、長崎に3年ほど過ごしたのは50年以上前になるが、この島原の乱が起こってから500年近く経っていた。
 50年前、小高い岸壁の上の原城跡地は、周囲4キロの三方を有明海に囲まれ難攻不落の天然の要塞。松の木などの木々と雑木の薄暗いイメージとして覚えている。苔むした碑文、頭が落とされた地蔵があるほどで、戦禍の凄まじさが浮かぶようであった。
 ネットで原城跡の映像を見て驚いた。今は、明るい公園に様変わりしていた。
 
 今宵の俳句は「朧」の句を紹介してみよう。
 
  怒涛岩を噛む我を神かと朧の夜  高浜虚子 『五百句』
 (どとういわをかむ われをかみかと おぼろのよ)

 句意は、荒れ狂う大波が岩にぶつかり飛び散るさまは岩を噛んでいるようでもある。もし私が怒涛となって岩を噛むならば、私は神であるに違いない。そのようなことを考えるのも朧夜なればこそである、となろうか。

 明治29年の作で、このとき虚子は長兄政忠の病気見舞いで松山へ帰郷していた。松山に赴任中であった夏目漱石と道後温泉にゆく道々に試みたのが「神仙体」の句であった。他に〈海に入りて生まれかはらう朧月〉がある。
 神仙思想とは、古代中国で、人の命の永遠であることを神人や仙人に託して希求した思想。 不老不死の仙人・神人の住む海上の異界や山中の異境に楽園を見いだし、多くの神仙たちを信仰し、また、神仙にいたるための実践を求めようとしたという。
 
 平成8年刊の歌人玉城徹著『俳人虚子』を深見けん二先生から戴き、読後感想を俳誌「花鳥来」に書いたことがあった。詳しいことは忘れてしまったが、1つ、大切なことを本著から受け取ったような気がしている。
 
 それは、河東碧梧桐と高浜虚子の性格的な相違であった。碧梧桐の俳句は、次々と理論に従って句調も変えてきた。だが、虚子はそうはしなかった。虚子は凡そ60年間もの長い間、作品を作り続けて「ホトトギス」を導くことができた。
 「もともと虚子は、空想の方面に、なかなか長けた作者であった。この空想世界というゆとりがあったために、虚子は、新傾向の方へ行かずに済んだのではなかろうか。」と、玉城徹は分析していた。この分析で、私が長いこと「なぜ」と感じていたことが解明された。

  星はらむ水のおぼろとなりにけり  中川宋淵 『新歳時記』平井照敏編
 (ほしはらむ みずのおぼろと なりにけり)

 句意は、星がぼんやり映っている水面には天の星がおぼろにかすんでいて、おぼろなる水になっていますよ、となろうか。

 「朧」とは、春は水蒸気が多く、春の夜の万物がおぼろにかすむことをいう。「月朧」「草朧」「灯朧」などがあるが、この作品は「水のおぼろ」と詠んでいる。
 夜空の星々が沼に映っている水を「星はらむ」といい、「水のおぼろ」則ち「星の映っているおぼろの水」になっているという。この水は、動かない水で、手水鉢(ちょうずばち)や蹲(つくばい)などであろうか。もっと大きいもので、奥深い沼などでも、こうした景は見ることができそうだ。
 
 中川宋淵(なかがわ・そうえん)は、臨済宗の禅僧。沢地の龍澤寺第十世として務めた。俳句は、飯田蛇笏門。