第四百七十五夜 高浜虚子の「百の椿」の句

 今日は、日本画家の小倉遊亀の誕生日。
 小倉遊亀と稲木紫織氏のインタビュー『日本の貴婦人』から一部紹介させて頂く。
  
  而生其心(にしょうごしん)
  
 ――どんな意味なのですか。
 小倉 持っているものを捨てなさい、とはよく言われることですが、自分が持っているものを捨てると、かえって本当の心が帰ってくるという、そういう意味です。ですから「しこうしてその心を生ず・・」捨てたつもりの心が、かえって自分のものになる、ということです。

 小倉遊亀(おぐら・ゆき)は、明治28年- 平成12年、日本画家。滋賀県大津市出身。奈良女子高等師範学校卒。安田靫彦に師事し105歳で亡くなるまで描き続けた。、昭和元年、院展に入選し、昭和7年、1932年に女性として初めて日本美術院の同人となった。椿の作品も素晴らしくて好きである。

 今宵は、小倉遊亀の椿の作品も好きなので、季題「椿」をみてみよう。

  ゆらぎ見ゆ百の椿が三百に  高浜虚子 『七百五十句』
 (ゆらぎみゆ ひゃくのつばきが さんびゃくに)  

 句意は、満開の椿が揺れているのを見ていると、百もある椿が、揺れて三百にも見えてきましたよ、となろうか。
 
 この作品の景とは違うが、公園で木から溢れて零れ落ちそうな満開の椿を見たことがある。
 掲句が詠まれたのは昭和26年、数ヶ月前には左の手足と舌に異常を感じたことがあった。この日は、鎌倉の英勝寺の吟行で、同時作〈汝に謝す我が眼明らかいぬふぐり〉がある。当時、虚子は老人性の白内障も病んでいたという。そうしたこともあって、犬ふぐりがはっきり見えたことを喜び、百の椿が三百にも見えて揺れていることを楽しんだのであろう。「百の椿が三百に」の調べが弾むようで素晴らしい。

  落ざまに水こぼしけり花椿  松尾芭蕉 『ホトトギス 新歳時記』
 (おちざまに みずこぼしけり はなつばき)

 句意は、椿の花が落ちるとき、花に溜まっていた水がこぼれましたよ、となろう。
 
 椿は、花は紅色の5弁花で、花弁は1枚ごとに独立した離弁花だが、5枚の花弁と多くの雄しべが合着した筒形になっていて、花全体がまとまって落花する。 下向きに咲く花だが、満開の木には上向きの椿もある。
 雨が降った折に、筒型の底に溜まった水滴が、落花する時にどっと零れたものであろう。

  古井戸のくらきに落る椿かな  与謝蕪村 『ホトトギス 新歳時記』
 (ふるいどの くらきにおちる つばきかな)

 句意は、椿が古井戸に落ちています。古井戸の暗い中に落ちたが、筒型の椿はばらばらになることもなく、赤い花の色を上向きにして落ちていましたよ、となろう。
 暗さの中で椿は、花の色も形もそのままの美しさを見せてくれている。こうした落椿に出合うことも蕪村の美意識であると思う。

  一樹即一円をなし落椿  深見けん二 『日月』
 (いちじゅそく いちえんをなし おちつばき)
 
 句意は、一本の大きな椿の樹の下は、落椿が、まあるい円を描いたように散り敷かれていましたよ、となろうか。
 
 なんという美しい景であろうか。俳誌「花鳥来」の1頁に出合ったとき、感動したことを思い出した。
 「一樹即一円」・・簡単明瞭で、それでいて過不足なく伝えきった言葉の見事さに感動したのだった。