第四百七十七夜 勝又洋子の「立雛」の句

今日は3月3日、雛祭である。昨年の令和2年7月に私は、勝又洋子さんからお手紙を頂いた。
 洋子さんの所属している3つの結社の1つ、岩岡中正主宰誌「阿蘇」7月号で、〈立雛のほのとまします影法師〉の作品がで巻頭になったという嬉しいお便りであった。1枚の立雛のお写真が同封されていた。
 
 今宵は3月3日、先ずは「立雛」の作品から紹介させて頂こう。

  立雛のほのとまします影法師
 (たちびなの ほのとまします かげぼうし)

 句意は、立雛をじっと眺めていると、後ろの白い屏風に、男雛と女雛のうっすりとした影もいらっしゃいましたよ、となろうか。

 「阿蘇」7号の巻頭作品の自句自解によると、この立雛は、洋子さんが御所人形師のもとに通って、ご自身の制作した雛であるいう。
 雛の品格は、顔、白い衣裳、冠の金と帯の銀と女雛の赤の重ね、手を拡げた男らしさ、胸を合わせた女らしさの所作など、全てから香り立つものである。全体の白い色調は洋子さんご自身で決めたのであろう。
 
 結婚されて早や半世紀は過ぎていて、雛祭には娘さんの雛壇と一緒に立雛も飾り、毎年のように眺めている間に、洋子さんはいつしか、後ろに「ほのとまします」影法師に気づいた。
 影法師は人にできる影だけれど、洋子さんの分身のような手作りの立雛の影法師は、よき家庭を築き上げた結婚の日々の幸せの余韻であり風情であると言えるかもしれない。
 その年の雛祭に、掲句が生まれたのではないだろうか。
 御主人に立雛の写真を撮ってもらい、洋子さんが願った通り、そこには影法師がうっすらと映っていた。

 この鑑賞文は、「阿蘇」主宰の岩岡中正先生の書かれたものである。
 
 「立雛」の古風をその「影法師」という「虚」から詠んで、その「いのち(実)」に迫る繊細丁寧な凝視を通して、その対象の本質に迫る、つまり「モノ」から「心」に迫る、本当の意味での写生句である。」
 
 勝又洋子さんの俳句は、昭和58年、ご長男の学校のPTAサークル「駒草」にて中村汀女に師事することに始まり、汀女先生の没後、深見けん二先生の「元芝句会」、平成6年に「花鳥来」に入会した。
 「花鳥来」では、虚子研究の『五百句』と『七百五十句』輪講会に、私もご一緒に参加し、資料を集めて虚子のこと、今でも難しいが「客観写生」「花鳥諷詠」を考える日々は、懐かしく真っ直ぐな時間であった。
 
 洋子さんは、深見先生ご指導の、吟行を大切にし、季題である対象をじっくり写生して作句することを、忠実に守ってきたお一人だと思っている。
 深見先生の言葉に、「ともかく写生というのは、発見ですからね。思いがけないものに出会いますよ。」がある。
 
 そうした中で生まれた洋子さんの作品を、第2句集から紹介しよう。

  山眠る音なき音に那智の滝  『手紙』
 (やまねむる おとなきおとに なちのたき)

 句意は、音らしい音もなく静まりかえった紀伊山地の熊野古道に、那智の滝の音だけが響き渡っていますよ、となろうか。

 那智の一の滝は、落ち口の幅13メートル、頂上からの落差133メートルの日本一の滝である。「山眠る」という静まりかえった冬山は訪れる参拝客も少ない。冬の那智の滝は、冬の引き締まった空気の中でこその滝音の凄まじさ、水しぶきの美しさに出合えるという。
 
 中七の「音なき音に」は、全くの無音というのではなく、冬山を「山眠る」として静かさを強調し、那智の滝の133メートルの落差を落ちる轟音との対比を感じさせる音である。

 勝又洋子(かつまた・ようこ)は、昭和20年、広島市生まれ。平成4年、「元芝句会」にて深見けん二に師事。平成6年、深見けん二主宰「花鳥来」入会。平成14年、稲畑汀子主宰「ホトトギス」入会。平成21年、岩岡中正主宰「阿蘇」入会。俳人協会会員。日本伝統俳句協会会員。句集『薄氷』『手紙』。共著「虚子『五百句』入門」深見けん二監修。