第四百七十八夜 水原秋桜子の「蚕飼(こがい)の村」の句

 蚕のことは、4歳の時には大分県を離れているので、遠い記憶しか残っていない。  
 祖母が元気なころ、布団の綿を打ち直したり、布地を変えたりする際に、蚕の絹糸を焼海苔の大判のように伸したものを、布団綿の形に伸ばして整えてから、新しい布地で包んで敷布団や掛け布団を作るお手伝いをした記憶がある。小学生の低学年の頃であった。
 その蚕の絹糸は、大分県に住む伯母から送られてきていた。
 
 蚕を飼う様子はテレビでしか見たことがないが、真っ白い毛のないカイコは、ちょっと苦手だな、と思ったことがある。
 カイコ(蚕)はチョウ目(鱗翅目)カイコガ科に属する昆虫の一種。カイコガの幼虫はカイコと呼ばれ、クワ(桑)を食餌とし、絹を産生して蛹(さなぎ)の繭(まゆ)を作る。カイコは、有史以来5000年の養蚕の歴史と共に生きてきた昆虫である。卑弥呼の時代には既にあった絹糸なので、当時のゆったりした服のしなやかかさが納得できる。
 
 蚕といえば、春蚕(はるご)のことで、夏蚕(なつご)、秋蚕(あきご)と年に3回は飼育して繭を生産することができる。農業の傍らのよい副業であったという。
 
 今宵は、『新歳時記』平井照敏編より「春蚕(はるご)」の作品をみてみよう。
 
  高嶺星蚕飼の村は寝しづまり  水原秋桜子
 (たかねぼし こがいのむらは ねしづまり)

 句意は、朝から晩まで農業をし兼業として蚕の世話をする蚕飼の家々は、早々と寝静まっている。夜更けの天上には星々が煌めいていましたよ、となろうか。

 ある句会で、大先輩が「高嶺星」という造語のロマンティックな美しさを話してくれたことを思い出す。
 水原秋桜子は、高浜虚子の「ホトトギス」で、素十、誓子、青畝とともに「四S」の作家と呼ばれ、昭和初期の俳壇を賑わわせていた。ことに秋桜子の、短歌調を取り入れ、構成による、清新流麗で明るさに満ちた抒情詩は、山口誓子の硬質な調べと二分する人気作家となっていった。
 やがて、写生論の相違から「ホトトギス」を離れて「馬酔木」を主宰する。

  ねむり蚕にひとつゆらめくかうべあり  皆吉爽雨
 (ねむりこに ひとつゆらめく こうべあり)

 句意は、カイコたちは桑の葉を食べて寝入ったと思われるころ、なにやら1つがもたげて揺らめいているカイコの頭がありましたよ、となろうか。
 
 カイコガの幼虫であるカイコの白く何やらうごめいている姿が、寝つかないカイコなのか、夢を見ているカイコなのか、まさに「ゆらめくかうべ」ではないだろうか。

  道の辺に捨蚕の白さ信濃去る  橋本多佳子
 (みちのべに すてごのしろさ しなのさる)

 句意は、病気になっ捨蚕(すてご)たちが、白く動かなくなって道端に捨てられていましたよ。それを眼にしながら私は、信濃を去って家路に向かいました、となろうか。
 
 カイコたちは、人間の手厚い世話を頼りに成長するが、軟化病などの病気にもかかりやすいし、カイコノウジバエ(蛆)に寄生されたりもする。何万頭も密度濃く飼っているので、病気が広がれば全滅を防ぐために、捨てるしかない。信濃は有数の養蚕の盛んな地であるという。
 この地に別荘がある橋本多佳子が、信濃を去る帰り道に出合った景である。

  逡巡として繭ごもらざる蚕かな  高浜虚子
 (しゅんじゅんとして まゆごもらざる かいこかな) 

 句意は、沢山の桑を食べた後のカイコは、繭籠りの時期に入るのが常だが、なかなかその動作に入らないカイコがいる、ということか。
 
 カイコは繭を作る時期になると、1つずつに分かれた箱に入れられ、そこで糸を吐きながら繭を作る。ほとんどは習性通りに糸を吐き始めるが、そうしたくない反抗期(?)のカイコもいるというのだ。10日ほどで繭ができると、そのまま製糸工場へ送られる。カイコの吐く糸は大変細く、1個の繭の糸の長さ(繭糸長)は1300m~1500mもあるという。
 
 絹の反物が出来上がるまでは気の遠くなるような工程をへなければならない。絹織物産業は、化繊織物産業に追い越されてしまってはいるが、やはり絹は女性にとっては夢の素材であり続けるだろう。