大石陽次(おおいし・ようじ)という夫の大学時代の友人がいる。2人は仏文科と哲学科。2人は授業にはあまり出ず、小さな文芸サークルで詩や小文を書いていた。大学4年の教育実習生として夫と出会った私も、いつしか飲み会に参加するようになった。古い友人はいい。
彼はNHK出版に入り、夫は蝸牛社という出版社を立ち上げた。どっちが上手く人生の荒波を越えてきたかというと、勿論、大石陽次の方である。
2人はときに近づき、しばらく離れ、再び近づいたのは、悲しいことに大石さんの奥様が亡くなられた報せが届いた2月の半ばであった。大病で入院中の大石さんを毎日のように奥様は看病に通っていたが、ある朝、出掛けに玄関で倒れてそのままであったという。
夫は、お悔やみに行き、2人で一緒に般若心経をずっと唱えた。
その後であったと思う。
ある日、『ちゅうちゅまんげのぼうめいて』という詩集が送られてきた。久留米弁で書かれている、おばあちゃんのことばに引き込まれた。大石さんが腸の破裂で1ヶ月の入院の後に、思い出すように九州のふるさとや子どものころのことを詩に書きはじめた時のことだ。
あとがきには、こう書いてある。
「すると、わたしのばあちゃんが机のわきに、なつかしい姿で出現したのだ。こげなこつのあつたなあ、とか、あのこつは覚えとるかい、とか、勝手にしゃべりだしたのである。しかも、こげなふうに書いたがよーはなかかい、などと、ワープロのキーを押したりするのであつた。(略)
夏から冬にかけて、ばあちゃんが語るいくつもの物語ができあがっていった。そして、年末には、語るべきことも、もはや出尽くしたようだった。ばあちゃんは、陽しゃんも元気になってきたごたるけん、あんしんした。浄土でんそれなりに忙しかぞ、ち、帰って行った。」
著書を頂いたのち、大石さんと久しぶりにお会いし、時折、茨城県をドライブするようになり、夫はお礼のハガキに1句を書くと、大石さんも、その返信に、必ず1句添えてくるようになった。
今宵は、『ちゅうちゅうまんげのぼうめいて』の詩を挟みながら、大石陽次の俳句を紹介してみよう。
魂の村よみがへる曼珠沙華
(たましいの むらよみがえる まんじゅしゃげ)
この作品は、茨城県土浦駅前のバス停から、大石さんと夫の2人がぶらり遊んだ日である。発車するバスに飛び乗って北の方へ向かった。9月の穏やかに澄んだ景であったという。
帰り道のタクシーからの景は、野に畑に道端にほつほつと赤い曼珠沙華が咲いていた。2人は降りて歩くことにした。大石さんは「土浦は、ぼくの生まれた九州の久留米にどこか似ているなあ。」といい、そのときに生まれた句であるという。
秋のお彼岸のころに咲くからだろう、曼珠沙華は彼岸花とも死人花とも呼ばれる。【曼珠沙華・秋】
句意は、曼珠沙華の咲く大地に佇むと、今は死に絶えてしまったが、かつて村があったような気配を感じましたよ、となろうか。
帰りなんいざ弥陀のもと浅き春
(かえりなん いざみだのもと あさきはる)
「帰りなんいざ」は、陶淵明「帰去来辞」の「帰りなんいざ、田園将(まさ)に蕪(あ)れんとす、胡(なん)ぞ帰らざる」の一節にあり、さあ、帰ってしまおう、の意。【浅春・春】
「ばあちゃんの死」から、一部。
「母親の腹から裸で押しだされ、
人間なこげんして、地面と空のあいだば生き、歳ば重ね、
また無一物で土に還っていかにゃならん。
仏さんな、こげん言わしたげなたい。
六根ば清浄にしなさい、ち。
眼、耳、鼻、舌、身、意の六根の汚れででけた業ば滅し去り、
輪廻ば断ち切り、死に切るもんが、浄土に生きるこつができる、ち。」
(1)ちゅうちゅうまんげ=ちょうちょ
(2)浄土でん=浄土でも
(3)こげん=このような
(4)ち=と