第四百八十一夜 山口誓子の「流氷」の句

 流氷は、大河や海に氷塊が群れなして流れることだが、日本では普通、北海道のオホーツク海沿岸の流氷をイメージする。多く見られるのは春先の2月半ばから3月にかけて最も多くみられ、この間の流氷の流れは壮観である。
 酷寒の北海道の現象で、結氷が解けた塊だが、晴れた日、青い海を相寄り相離れて漂う真っ白な流氷群は、巨大で力感のあるものであるという。
 
 私は流氷を見たことがないが、流氷で真っ先に浮かんだのが、アメリカ合衆国のハリエット・ビーチャー・ストウ(ストウ夫人)の小説『アンクル・トムの小屋』の1場面であった。
 黒人奴隷解放運動が始まる前のことで、悪質な白人の奴隷になることは黒人にとって地獄であった。ある時、親子の黒人がばらばらに売り飛ばされてしまうケースがあって、逃げようとした母と子はアメリカとカナダの国境の流氷漂うオハイオ河を渡って奴隷制度のない自由の国へ行こうとした。
 今でも、子をしっかり抱いて、決死の覚悟でオハイオ河に飛び込み、流氷に乗り、ぴょんぴょんと流氷を飛び移り、対岸のカナダへ無事に着いた母親の描写が忘れられない。

 今宵は、山口誓子の「流氷」の作品を紹介してみよう。

  流氷や宗谷の門波荒れやまず  『凍港』
 (りゅうひょうや そうやのとなみ あれやまず)

 宗谷は、樺太の南端と北海道北端との間の宗谷海峡のこと。門波(となみ)は、その海峡に立つ荒波のことである。
 
 句意は、春になって凍っていた海面の氷が融けはじめ、狭い宗谷海峡に荒波が立ち、流氷が押し流され押し流される様子は凄まじいものですよ、となろうか。
 
 ホトトギス『雑詠句評会抄』の虚子の鑑賞にはこうあった。
 
 「単に景色を叙した客観句であるに拘わらず、この作者の頭の中をおしはからずにはいられない。(虚子は宗谷を渡ったことはない)それでいてこの句をよむと、その宗谷海峡の様子がまのあたり躍動している如く感ずると同時に、この作者の頭の中も「門波荒れやまず」といった様な風に躍動していることを強く感ずる。(略)
 恰も飛行機に乗って非常な高所から外界を見下ろしたごとく、天地を狭しとして小宇宙を頭の中に描き出したかの感じがする。即ちこの作者の男性的な感情が、宗谷海峡をつかまえて詩の一画においたような感じがする。これが先に客観の景色を叙した句であるが、この句を通して直ちに作者の主観の側を思うと言った所以である。またわが俳句の新境地に鉄の草鞋を踏み入れた一方面の句として特に認めていい。」
 
 掲句は大正14年の作。誓子は、大正9年に日野草城らの「京大三高俳句会」へ参加し、大正11年には「東大俳句会」に参加して、高浜虚子を指導者として、中田みづほ、水原秋桜子、高野素十、山口青邨らとともに研鑽した。こうした中で生まれた掲句である。
 
 水原秋桜子、高野素十、阿波野青畝とともに「四S」の作家として人気を博していた山口誓子だが、私には、男性的な作風は少し難解に感じられていた。
 だが虚子の鑑賞から、「新境地に鉄の草鞋を踏み入れた」作風の作家が生まれたことを喜んでいることが強く伝わってきた。
 
  流氷や風のかはりて澳ながれ  『凍港』
 (りゅうひょうや かぜのかわりて おきながれ)
 
 句意は、流氷は風向きが変わって、岸から遠く離れてしまいましたよ、となろうか。
 
 「澳(おき)」という難しい漢字が使われている。意味は海または湖などで、岸から遠く離れた所のこと。
 大正14年の作で、「ホトトギス」大正15年3月号で他の2句合わせて4句が巻頭になっている。