第四百八十三夜 星野立子の「土筆」の句

 土筆(つくし)は、小学生の頃に近くの野原でよく摘んだ。野原に目を凝らしてじっと見ているうちに、土筆の生えている流れが見えてくる。遊び仲間の数人で競争して手に持ちきれなくなるまで摘むと、家に駈けもどり、「こんなに採れたよー」と、大声で祖母や母にわたせば土筆摘む遊びはお仕舞いだった。
 父の酒の肴の一品になっていたかもしれない。
 
 25年前に、東京練馬区から茨城県南の利根川沿いの取手市に越してきてからは、80歳近くなった母と黒ラブ1代目のオペラと利根川の土手や河川敷をよく散歩した。たんぽぽの頃、菜の花の頃、土筆の頃、蕗の薹の頃、見つけることも摘むことも大好きな母は嬉しそうであった。
 
 季題「土筆」は、いたるところに自生するとくさ科の多年生常緑草本で、地中に長い根茎があり、早春に地上茎を出す。地上茎の胞子茎がいわゆる土筆である。土筆には「袴(はかま)」があって折れやすい。土筆のあとに杉の葉のような草状に生えるのが杉葉(すぎは)である。

 今宵は、「土筆」の俳句を句紹介してみよう。

  まゝごとの飯もおさいも土筆かな  星野立子 『立子句集』
 (ままごとの いいもおさいも つくしかな)

 句意は、ままごと遊びではご飯もおかずも、みんな土筆でしたよ、となろうか。
 
 大正15年の作。大正13年に東京女子大卒業後の星野吉人と結婚してはいたが、まだ、子どもの早子(後の椿)は生まれる前のこと。父の虚子のすすめによって夫の吉人とともに俳句を作り始めた。立子の第1作目が掲句である。

 『玉藻俳話』の第一番目に次のように書かれている。
 
 「これは大正15年、3月末の私にとってはじめての作句であった。笹目ヶ丘に住んでいた頃で、門の内側に一軒の小さな家があって、其処には桃井さんの一家が住んでいた。小さな男の子が遊び相手もなしに玄関の敷居に箱の蓋を置いて俎板とし、ままごとをしてゐたのを見かけ、その時目に映った、ただありのままを叙してみたのであった。」
 
 男の子の「ごはんですよ」と言っては器に土筆をのせ、「おかずの魚ですよ」と言ってはお皿に土筆をのせながらのままごと遊びの、なんと可愛らしいこと。土筆は袴があって折れやすいので、料理に便利かもしれない。
 見たままの句だとあるが、「飯もおさいも土筆かな」とは誰でもが詠めることではない。
 「あなたは平凡の価値を解しているようである。これは大した事だ。」
 この言葉は、昭和32年9月の「玉藻」の「立子へ」に、虚子が書いたものである、
 
  看病や土筆摘むのも何年目  正岡子規 『正岡子規全句集』
 (かんびょうや つくしつむのも なんねんめ)

 句意は、妹の律は兄の看病ばかりで、土筆を摘みにちょっと野遊び行くこともなかったが、今日は久しぶりの土筆摘みだね、何年ぶりであろうかとなろう。
 
 明治35年の春の作。正岡子規はこの年の9月17日に亡くなるが、春の頃にはまだ、母と妹律の2人がいなくても、子規の病状の落ち着いた日はあったのだろう。河東碧梧桐の『子規の回想』に、ある日、律を誘って、近くの赤羽の原っぱで土筆を摘んだが、鎌で採るほどで籠いっぱいにした時の律の喜びようといったらなかった、と書いてあった。
 松山では「ホシコ」と呼んでいて、子規も摘むことも、また食べることも好物であったという。
 
  目に立ちしときは杉菜でありにけり  稲畑汀子 『ホトトギス 新歳時記』
 (めにたちし ときはすぎなで ありにけり)
 
 句意は、辺り一面に目立つようになった時は、土筆ではなく杉菜になっていましたよ、となろうか。
 
 土筆は見つけるのが難しいが、杉菜は青々とぼうぼうと生い茂っている。