第四百八十四夜 京極杞陽の「震災忌」の句

 明日の3月11日は東日本大震災から10年目となる。外に出ると、あの大震災の翌朝に見た白い辛夷が蘇ったかのように咲き始めている。
 テレビでは大分前から東日本大震災の映像が流れている。
 
 大正12年9月1日には、東日本大震災に匹敵する大規模な関東大震災が起きた。
 明日を控えて、どれほどの規模であったのか知っておきたくなった。茨城県南は東日本大震災でかなり揺れたが、この辺りの深い地底には地震のプレートが走っている地域であるという。関東地方の下に沈み込んだフィリピン海プレートや太平洋プレートに関係する地震活動なのでよく揺れる。
 
 関東大震災は、相模湾を震源地とする大地震で、関東平野を襲った。当時は木造家屋が多かったので、東京府と神奈川県の190万人が被災、10万5,000人あまりが死亡あるいは行方不明になったと推定されている。 
 悲惨を極めたのが本所被服廠跡、現在の墨田区横綱町震災記念堂辺りである。
 
 隅田川近くに住んでいた俳人の富田木歩(とみた・もっぽ)は、凄まじい劫火の中を逃げ、蹇(あしなえ)の身を俳句の友人新井声風の背に括り付けられて隅田川の土手の上まで辿り着いた。
 後には火の手が迫り、隅田川に飛び込むしかなかった。木歩は泳ぐことはできない。どんな思いだったろうか、声風は、「これまでだ」と、木歩の手を強く握った。木歩は黙って握り返したという。
 声風は隅田川に飛び込み、向う岸に着いて対岸を見たが、土手には既に木歩の姿はなかったという。木歩も飛び込んだのだろう。
 私は、俳人富田木歩を作家吉屋信子著『底のぬけた柄杓』で初めて知ったが、無論だが関東大震災の俳句はない。
 
 もう一人、後にホトトギスの俳人となる京極杞陽(きょうごく・きよう)が、15歳の時に関東大震災に遭遇している。この大震災で一度に祖母と父母と弟妹を失ったショックは大きく、周囲も気を使ったが、杞陽も自ら語りたがらなかったという。
 震災の俳句を詠んだのは45年余り後の昭和33年になってからであり、2句ともに「ホトトギス」の巻頭となった。
  
 今宵は、京極杞陽の関東大震災を詠んだ作品を紹介してみよう。

  わが知れる阿鼻叫喚や震災忌  京極杞陽 『但馬住』
 (わがしれる あびきょうかんや しんさいき)

 句意は、私の覚えているのは、間断なく泣き喚く地獄のような有り様でした、それが震災忌ですよ、となろうか。
 
 昭和15年8月号「ホトトギス」の「闇」という文章に、次の文章を書いている。
「震災の日、東京の空に現れてゐたあの奇怪な凝り輝いた入道雲の下は、夜のような闇だつたのだ。(略)赤い明るい火の世界に黒く小さく乱れ狂つて人々は死んで行つた。」
 杞陽は、このような心の「闇」も抱えていた。

  電線のからみし足や震災忌  京極杞陽 『但馬住』
 (でんせんの からみしあしや しんさいき)

 句意は、学習院中等科に通っていた杞陽(当時は高光)は、焼け落ちる家々を見、泣き喚く人波をぬけて、家に急いで戻る途中で、倒れている電信柱の電線に足が絡まったりしましたよ、となろうか。
 
 昭和11年、杞陽はヨーロッパ遊学旅行に行った折、虚子と運命的な出会いをする。ベルリン日本学会講演会で渡欧中の虚子の講演を聞き、翌日、日本人会による虚子歓迎の俳句会に出席。出句したのが次の句で、ヨーロッパで出逢った若い女性を詠んである。その時の句が〈美しく木の芽の如くつつましく〉であった。