第四百八十八夜 高野素十の「桃の花」の句

 今日は、昨日とは打って変わっての美しい晴天。朝食後に娘から「古河の桃を見に行こうよ。」と誘われて、桜の前に、見ておきたいと念じていたので、素早く用意をして車に飛びのった。
 
 今年の「古河の桃祭り」は、コロナの影響で中止が決まっていたのは知っていたが、公園内の桃を見ることはできる。道中も混雑はなく、公園内も入口近くの駐車場へ入ることができた。
 青空の下ではあるが、昨日からの風の強さは収まってはいない。春疾風の中を歩き始めると池があって、芽吹き始めたばかりのやさしい色合いの柳の大木が大揺れに揺れていた。
 
 桃は五分咲きから七分咲きほど。歩きながら坂を上ったり下ったり、遠くの丘には、緋桃の紅の濃淡の桃の木がずらりと立ち並んでいる。なんともおだやかな風景である。
 
 野原にテーブルと椅子があるので、しばらく休憩。足元をみると、ぺんぺん草、犬ふぐり、仏の座が咲いている。あまりの可愛さに、屈み込んで写真を撮った。
 驚いたのは、家に戻ってからだ。写真は、犬ふぐりに跼るように近づいて写したので、私の影が半分写っていた。よくみると、なにかヘンだ。ぽつぽつと付いているのはゴミである筈はないが、青い色であった。
 もしかして、犬ふぐりの青かしら?
 横の、私の影の外に咲く犬ふぐりと、色も、形も、間隔もそっくりだ!
 影になった犬ふぐりは、カメラを向けた時には、青い色を感じることはなかった。
 
 理科も科学も得意ではない私は、不思議だと思うばかりだが、カメラがパチっとする時の光が色を感知するのであろうか。
 
 さて今宵は、高野素十の「桃の花」の俳句を紹介しよう。
 
  野に出れば人みなやさし桃の花  高野素十 『初鴉』
 (のにでれば ひとみなやさし もものはな)

 句意は、町を出て郊外に来てみると、折しも畑は桃の花盛りで美しい。そしてその畑の道々で出合う田舎の人たちは、桃の花のやさしさに似ていて、親切でやさしい人ばかりでしたよ、となろうか。
 
 昭和8年の作で、「ハンドシュハイム行」と前書にある。
 素十は、昭和6年に同じくホトトギスの俳人の千葉富士子と結婚し、昭和7年には新潟医科大学法医学助教授となり、東京を離れた。昭和7年11月から9年12月まで、新婚1年ほどの妻富士子を残して、ドイツに単身で留学している。〈火曜日は手紙のつく日冬寵〉の句もあるが、火曜日には日本の妻から手紙が届くのに、今日は未だであるなどと、独りの無聊をかこつこともあった。
 
 素十が星野立子の「玉藻」昭和8年9月号に書いた「ハイデルベルヒ(二)」には、掲句のことが書いてあるので、その1部を紹介させていただく。
 「ハンドシュハイム通りから左へ二丁ほどゆくと町を外れて田舎景色となる。どこまでも畑つづき、果樹(林檎。桜。桃。杏)が花ざかり。婆さんが一人例の三角のきれで頬被りをしてサラダを間引いてをる。柵の外から話しかける。話す方も一生懸命だが聞く方も一生けんめい。
 桃の木はみんな植えて三年目だとか、サラダはどうとか、人のいい婆さんらしい。いつまでもしゃべってくれる。桃栗三年といふのを一寸思い出す。その三年目といふ桃の木は僕のせいより高くて花盛り。(略)」
 
  素十は、茨城県藤代の百姓の家に生まれて、新潟の伯父の元で育った。素十の句に〈百姓の血筋の吾に麦青む〉というのがあるが、異国にあって、素朴な田舎の人の心に触れて、久しぶりに心がほぐされたことであろう。
  
 本稿は、倉田紘文先生からご贈呈頂いた、素十の愛弟子の倉田紘文著「高野素十『初鴉』全評釈」より、多くを引用させて頂いている。