第四百八十九夜 深見けん二の「初桜」の句

 昨日の3月14日の3時、東京都では開花宣言がなされた。各地で決められた標準木があるが、長いこと東京に住んでいたので、今でも、私の基準になっている。靖国神社の桜の標準木に5、6輪咲くと開花宣言となる。
 ちなみに現在住んでいる茨城県の開花予想日は水戸で3月19日であるという。
 
 今日、守谷市の街道から奥まった旧家に数本の見事な枝垂桜がある。例年、桜並木よりも早く開花するので、買物ついでに回ってみた。眩いばかりの朝の日差しを浴びて3分咲きほどの花をつけていた。私の初桜であった。
 初桜は、その春に初めて咲く桜のことで、初花ともいう。3月中旬頃が多く、彼岸桜が多い。春を迎え、「初」という文字もあって、花に会うよろこびがこもる季題で、明るい気分にあふれている。
 
 今宵は、初桜の作品を紹介してみよう。
 
  ほころぶといふはこのこと初桜  深見けん二 『菫濃く』
 (ほころぶと いうはこのこと はつざくら)

 句意は、初桜を待ち、ようやくに一輪咲いているのを見つけた時、つくづく「ほころぶ」ということを感じるのですよ、となろうか。
 
 桜の裸木からずっと眺めている作者。けん二先生は毎年、自宅と清瀬駅の中間ほどにある東光院の桜の樹を1年を通してずっと見てきている。「花鳥来」の例会は吟行句会であり、私も桜の頃、椿の頃と、何回となく通った東光院である。
 初花に出合うには今日か明日かと待つが、その頃には何回も見に行かれることもあるという。午前中は蕾が膨らんではいるが、午後には初花が開花すると思えば出直してゆく。
 
 「ほころぶ」というのは桜の樹にとっても、人が子を生むまでの日々と同じである。産気づいてからの時間のように、きっと産みの苦しみがあってこその「ほころび」に違いない。

 私の家の近くには、ふれあい道路という桜並木と銀杏並木が、それぞれ10キロほど続いている。桜の季節は、春先になると幹の色も赤くなっている。やがて、木の芽と花芽の頃にはさらに赤みを増している。
 ある日、初花を見かけるが、決まって坂の上の日当たりのよい場所で、私立高校の校門近くである。
 
 そろそろ、この染井吉野の並木も「うんうん」唸るようにして幹の色も変わる頃だから、好きなパン屋さんも取手店の方へ行こう。
 
  人はみななにかにはげみ初桜  深見けん二  『花鳥来』
 (ひとはみな なにかにはげみ はつざくら)
 
 句意は、人は誰もがみな、目的があり希望があって、己の道に励んでいますが、初桜もまた、その最初の1歩を踏み出した花のように感じられますよ、となろうか。

 初花が咲くと、ちょうど気温も春の温かさを増してくる時期となり、花も、あれよあれよという間に咲き満ちてくる。だが、不思議と1回は、寒さが訪れて開花のスピードが落ちてくる。
 そして満開。高浜虚子の〈咲き満ちてこぼるる花もなかりけり〉の句が好きで、当時住んでいた練馬区光が丘公園に凡そ2週間、初花から桜蘂までを毎日、時間を決めて見に行ったことがあった。
 満開というのは、莟の全てが開いていて且つ落花しはじめていない瞬間である。
 
 掲句は、ある年の桜を追いかけて、いつものように季題「初桜」「初花」を多作していた時に、気づいたらふっと交じったかのように生まれた作品であるという。
 この日は、夜に、市ヶ谷一番町で、古舘曹人、斎藤夏風、黒田杏子という山口青邨の「夏草」門のお仲間との句会「木曜会」があり、その道すがらであった。
 
 「この句は、何と取り合わせようという気持ちでなく、「初桜」「初花」という1つの季題を、まず清瀬の東光院で、次に句会の場所近くで、嘱目で見ながら作っているうちに、ふと授かったとしかいいようのない句なのである。その頃から、私は俳句は「重ねる」「授かる」ものではないかと思うようになった。」
 
 深見けん二の俳句実践書である『折にふれて』の、「季題発想」の最後にけん二先生は、次のように結んでいる。