第四百九十夜 伊藤トキノの「青き踏む」の句

 2日前の日曜日、古河総合公園という広い桃の園に出かけた。晴れわたった日であったが強い春嵐の日で、なだらかな丘の公園は、小さな子にとっては、走り回るというより転げ回れそうな格好の遊び場だ。
 もう60年以上も前に子育てが済んでいる私には、眺めているだけで、いつ転ぶか春風に飛ばされたりはしないかはらはらするが、すっかり忘れてしまっていたが、幼子は案外に転ばない。若いお母さんも若いお父さんも、ちょっと離れてゆうゆうとしていた。
 
 どきどきして見ていると、子は、他所のおばちゃんに向かって、「こんにちわ!」と声をかけてきた。「はい、こんにちは! いい子ねえ!」と、挨拶を返したが、うれしかったのは私の方だ。
 芝生はやわらかく、犬ふぐりやぺんぺん草が咲いている。たんぽぽはもう少し先かもしれない。

 踏青は、中国の古俗を取り入れたものもので、旧暦3月3日に野山に出て、青い萌え草を踏んで遊ぶこと。「青き踏む」ともいう。野遊のことだが、家族連れのピクニック的な遊びという感じの野遊と比べて、踏青はより詩的、感慨的な、野の散歩である。
 春のこころ弾む行事だが、詩的な語感が好まれるという。
 
 今宵は、「踏青」「野遊」の作品を紹介してみよう。

  青き踏む仔犬のごとき児を連れて  伊藤トキノ 『新歳時記』平井照敏編
 (あおきふむ こいぬのごとき こをつれて)

 句意は、小さな子を連れて野遊びにでかけましたが、子は喜んで、まあ仔犬のようにあっちへ走りこっちへ走りという具合に母親を引っぱり回しているのですよ、となろうか。
 
 「仔犬のごとき児」は、よそ事として見ている分には元気そうでいい。わが家には大型犬の黒ラブがいるので、よくわかる。仔犬の頃は、動くものだったらなんでも、人でも鳥でも虫でも車でも突進していった。噛めるものはなんでも噛んでみた。散歩中は一時だって気がぬけない。
 でも、何にでも興味津々ということなので、一通り覚えてしまうと、やがては落ち着く。
 「仔犬のごとき児」は、学ぶことの好きな、いい子になるに違いない。
 「青き踏む」は、「野遊」と同じようであるが、どこかしっとりした雰囲気が感じられる季題なので、あたふたと引っ張られてゆく母親と児のギャップが愉しく想像できる。

 伊藤トキノ(いとう・ときの)は昭和11年岩手県生まれ。岩手大学学芸学部卒業。秋元不死男、鷹羽狩行に師事して俳句を学ぶ。俳句結社「狩」同人。句集に『花莟』『廚子』『花巻』など。

  野遊びの心たらへり雲とあり  高浜年尾 『ホトトギス 新歳時記』
 (のあそびの こころたらえり くもとあり)

 句意は、仕事を終えた昼休み、近くの大きな公園にゆくと、だんだんに野遊びの気分になってきた。足元は、やわらかく薄緑の芝が敷きつめられている。どこまでも青い空と白く流れる雲とともにあって、私の心は満たされてきましたよ、となろうか。
 
 中七から下五への措辞が、まるで雲の流れとともに、心がずんずんと満たされてゆくようである。この作品とともに、読み手の私の心までも、ずんずん満たされてゆくような気持ちになってくる。

 高浜年尾は、高浜虚子の長男。昭和26年に「ホトトギス」主宰となる。