第四百九十二夜 中村草田男の「春愁」の句

 「春温を病む」という言い方を知った。昔からある言葉であるという。初めて知ったのは、平沼洋司著『気象歳時記』蝸牛社刊であった。一部を紹介させて頂く。
  
 桜前線が順調に北上して春本番の季節である。春は気温も上昇し花も咲き、身も心も開放的になる反面、「ふっ」と何となく憂鬱な気分になることがある。
 そんな状態を「春愁」とか「春温を病む」という。
 そのほか、春傷、春恨、春心など、春を悲しむ言葉は多い。また、春さきは「木の芽どき」とか「木の芽つわり」の言葉があるように情緒不安定になる。「季節性うつ症」が出やすい、なぜだろう。
 現在のようにストレスの多い生活ならわかるが、昔から言われているのである。冬の寒邪が身体に残ったまま春になり、陽気にあたり病をおこす、と言われたり、春の南風が原因ともいわれる。
 紀元前の医学の祖ヒポクラテスは「南風は耳なりを起こし、目をかすませ、頭脳を疲れさせ」と述べているという。日本でも西の地方で南風を「ようず」と呼んで頭痛や眠気を誘う風としている。
 
 今宵は、「春愁」の作品を紹介してみよう。
 
  昔日の春愁の場(にわ)木々伸びて  中村草田男 『中村草田男全集』
 (せきじつの しゅんしゅうのにわ きぎのびて)

 句意は、遠い昔に春を病んでいたことがあった。そこを通りかかると、かつての木々は大木になっていましたよ、となろうか。
 
 草田男は、東大独文科に入学して西欧の文学に親しみ、ニーチェ、ヘルダーリン、チェーホフ、ドストエフスキー等の作家たちに興味を持ち、独特な感性と強烈な思想に影響をうけた。この青春時代の永い思想彷徨の末、しばしば神経衰弱にかかった草田男は、行き詰まった精神生活の打開の道として俳句を選んだ。そして、一旦休学した後国文科に転科した。草田男は叔母の紹介で虚子に会い、「東大俳句会」「ホトトギス」で虚子に師事はじめたのは29歳の東大生で、昭和4年のことである。
 そうした鬱々とした時期を過ごした場を「にわ=庭」と、ここで読ませているが、東大生の頃であろう。
 「ホトトギス」で学んだことは、虚心になって自然を見つめ、素直に感動したものをストレートに写生することであった。もともと絵心があった草田男は、写修行は少しの苦痛もなく、自然の中に入ることをたのしみ『』
 師の高浜虚子は、ホトトギスで他の俳人とは違うユニークな作品を詠みつづける草田男に、こうした道もある、と見守り育てた。

  春愁の昨日死にたく今日生きたく  加藤三七子 『新歳時記』平井照敏編
 (しゅんしゅうの きのうしにたく きょういきたく)

 句意は、春の木の芽どきのころ、私の心はころころ変わり、昨日はもう死んでしまいたいと思ったりしても、今日になると頑張ろうと思い直すのですよ、となろうか。
 
 まさに、春愁のころの、これぞ「季節性うつ病」の典型のようである。春愁のころでなくても、私など、仕事のことでも、屡々うつ状態に陥るが、うつ状態からの抜け道も知った年代になってからは立ち直りは早い。どんなことがあっても死ぬわけにはいかない。

  ふとよぎる春愁のかげ見逃さず  稲畑汀子 『ホトトギス 新歳時記』
 (ふとよぎる しゅんしゅうのかげ みのがさず)

 句意は、「ホトトギス」を率いる主宰者であるから、春愁は、ご自分のことではなく周りの会員のことであろう。稲畑汀子さんは、人の表情に、ふとした心の翳りが見えてしまうことがあるのですよ、となろうか。

 大勢の人の上に立つ者として周囲の方たちの春愁も見えてしまうこともある。「見逃さず」には、見抜く鋭さもある。だが、そうした部分は相手には見せずさりげなく心配りをしている様子の感じられる作品である。