鳥はおおむね年に一回、春に繁殖期に入る。交尾期になると、囀ったり、嘴をふれ合ったり、毛色が変わったりなど、雄が雌を誘う動作をする。
雄の孔雀が雌の前で尾をひろげたり、雄の駱駝がおどってみせることもある。鶴の舞も、雄が雌の前でおどったりする。雀の交わりはよく見ることがあるというが、私が見たのは鴨の恋だけである。
20年前に東京から茨城県へ越してきた私は、近くに利根川があり、車で30分ほどで沼があることが嬉しかった。つくば市の洞峰沼へよくドライブした。母を連れていったり、犬を相棒に1人でも出かけた。
平成13年2月、枯葦のそよぐ薄曇りの日であったと思うが、洞峰沼には人影が少なかった。枯葦の生い茂る辺りの鴨たちが何やら騒がしくなった。1羽の鴨が逃げてゆく1羽を猛スピードで追いかけている。あっ、雄につかまった、と思う間もなく2羽の鴨は重なったまま沈んでいった。また浮かんできた。2、3度こうして水輪が忙しく動いたが、2羽の鴨は、間もなく浮かんできた。
「えっ! もしや! これが鳥の恋なの!」
目の前で起こったことにビックリしたが、俳人としては貴重な季題「鳥交る」を目撃できたのだった。「鳥つるむ」「鳥の恋」ともいう。
今宵は、「鳥交る(とりさかる)」の作品を紹介してみよう。
鳥交る母が襁褓は干しなびき 松本たかし 『ホトトギス 新歳時記』
(とりさかる ははがしめしは ほしなびき)
句意は、鳥が騒がしいなあ。おそらく雀の恋の季節だろう、と庭に目をやると、物干し台には寝たきりになった母の襁褓が風に吹かれてなびいていましたよ、となろうか。
この作品には、「母老衰病臥」の前書がある。「襁褓」とは、 幼児や病人の大小便を取るために腰から下に当てておくもの。おしめ。おむつ。古くは「しめし」という言い方もあったという。
松本たかしが、寝たきりの母を詠んだ「襁褓」を、「おむつ」「むつき」と言って欲しくない気持ちはわかる。
祖父松本金太郎、父松本長という代々江戸幕府所属の宝生流座付きの能役者の家系に生まれたたかしの作風は、端正で鋭敏な感受性があり気品が高い。
能における、何百年もの間に無駄は省かれ洗練されてきた五七調の流麗な大和ことばの詞章、絢爛豪華な唐織の能衣装の美、鍛錬を重ねることで身につく型、身のこなしなどの技がある。能の世界で培った美意識の全てを、たかしは俳句という型の言葉に込めていた。
水沈みたり沈みたり鴨の恋 あらきみほ 俳誌「花鳥来」平成14年
(みずしずみたり しずみたり かものこい)
句意は、沼の鴨たちが激しく動いたと思うや、鴨は重なり合って水の中へ沈み、浮かんでは又沈んでゆきました。これが鴨の恋なのですね、となろう。
赤ん坊を抱いた若いお母さんと犬連れの私たちだけの沼のほとりは、枯れ葦原の風にそよぐ音だけのしずかな刻がながれていた。
マイセンの欠片やつるむ鴨と鴨 あらきみほ 俳誌「花鳥来」平成14年
(まいせんの かけらやつるむ かもとかも)
句意は、鴨のつるむ様子を偶然にもその一部始終を見てしまった時、プルースト作品の紅茶とマドレーヌの光景が浮かんだ。穏やかなお茶の時間は、ティーカップが落ちて粉々に割れたことで壊れてしまった。鴨の恋から、そのような流れゆく時を見たような気がしたのですよ、となろうか。
プルーストの著書はどれも長く、意識の流れが滔々とつらなっているので、書棚にはあるが読みおおせた巻があったか定かではないが、この鴨の恋を見た直後に、映画『見出された時』を観ることができた。
カトリーヌ・ドヌーヴの役は、元娼婦で今は貴婦人であったが、観客の私たちは、ドヌーブが『昼顔』で娼婦を演じていることを思い出した。思い出したのは、娼婦時代の僅かな目の動きと口元だったが、流れゆく時は、映画の中にもあったことを知った。