第四十八夜 下田実花の「寒紅」の句

  寒紅や暗き翳あるわが運命  下田実花
 
 掲句の句意は次のようであろう。
「寒紅をつけた芸者の運命がそうであるように、私も、暗い翳のある身の上なのですよ。」
 
 鑑賞をしてみる。
 季題「寒紅」は、虚子編『新歳時記』には「寒中に製した紅が尤もよいといふので寒紅は尊ばれる。殊に寒中の丑の日がよいといひ、丑紅の名がある。又寒中丑の日に紅をさせば口中の虫を殺すといふ俗説もある。」とある。
 冬の季題である「寒紅」は、心に期すものがあるときに詠むことが多い。掲句は芸妓を象徴したもの。「暗き翳あるわが運命」とは、実母の自殺によって、家族が別れ別れになった運命のことであろう。
 下田実花(しもだじっか)は明治四十(1907)年の生まれ。俳人・「天狼」主宰の山口誓子の妹。四歳で母を亡くした実花は、兄の誓子や他の姉妹と別れて歌舞伎の尾上梅昇の養女となり、次に下田家の養女となり、養父没後には十五歳でお酌となって下田の母を若くして養うようになっていた。「お酌」とは一人前になっていない芸者のことで、東京では半玉、京都では舞妓のことである。
 実花の第一句集『實花句帖』で兄の誓子は、「お前の嘆きや溜息は句には詠はれなかつたのであらう。兄として何の力にもなれなかつた私は、さういふ句のないことに却て深い悲しみを誘はれる」と、跋文に書いている。
 
 新橋の芸者たちが虚子のホトトギスで俳句を始めるようになったのは、三菱地所の赤星水竹居(あかぼしすいちくきょ)が大きく関わっていた。水竹居は、ホトトギス社の入っている丸ビルを管理していたことから虚子と知り合うようになり、自然に俳句を作るようになった人。地所部長として丸ノ内一帯の三菱の地所を管理するという実業家としての仕事上、料亭を利用することも多かったことから、そこで芸者たちに俳句の種を植え付けたのだった。実花もその一人である。

 実花は、お酌時代から一茶のものを好んで読んでおり、昭和十年に虚子の許で俳句を始め、写生文の「山会」にも所属。昭和二十年にはホトトギスの同人となった。戦時中、実花はホトトギス社に勤務したり、星野立子の家に住み込みで「玉藻」の編集の手伝いをしていたが、戦後、虚子は「実花君は芸妓に復帰すべきだ」と勧めたことから、立三味線、哥沢(うたざわ)の名手の芸者、俳諧芸者として新橋でも立派な存在となってゆく。
 
 古書店で入手した句集『実花句帖』『手鏡』の二冊、文集『ふみつづり』を、久しぶりに読み返してみた。高浜虚子、山口誓子、丹羽文雄の序文のある著書である。贅沢な装丁の見事さもさることながら、誓子の序文が、幼い頃から苦労して生きてきた妹へ、母と父の分までの愛情を注いでいる文章であることに涙が出た。「暗き翳あるわが運命」を、見事に乗り越えた俳人下田実花なのであると思った。
 もう一句、「誓子居にて」の前書のある作品を紹介しよう。
 
  ひとときの旅の昼寝をたのしみし  実花