第四百九十五夜 高浜虚子の「春雨」の句 『五百句』第1日

 虚子の句集は、明治、大正、昭和10年までの第1句集『五百句』、昭和11年から15年までの第2句集『五百五十句』、昭和16年から20年までの第3句集『六百句』、昭和21年から25年までの第4句集『六百五十句』、昭和26年から34年3月30日までの第5句集『七百五十句』である。
 何とも大雑把な句集名とも言えるが、今となっては、作品を探す上でもありがたい句集名である。
 
 『五百句』の序は、1部分だが次のようである。
 「ホトトギス」五百号の記念に出版するのであって、従って五百句に限った。
 この頃の自分の好みから言えば、勢い近頃の句が多くならねばならぬのであるが、しかし古い時代の句にもそれぞれその時代に応じて捨てがたく思うものもあるのであるが、先ず明治・大正・昭和三時代の句をほぼ等分に採ったことになった。(以下略)
    昭和12年5月27日
                     「ホトトギス」発行所
                             高浜虚子
 
 今週3月26日には、この「千夜千句」が500夜となるので、その日までは高浜虚子の第1句集『五百句』から作品をみてゆこうと考えている。重なっている句もあるが違うことにも触れている。

 今宵は、明治時代から2句を鑑賞してみよう。

  春雨の衣桁に重し恋衣  明治27年
 (はるさめの いこうにおもし こいごろも)

 句意は、室内には衣桁があり、着物が掛けられている。逢瀬を終えての着物か、逢瀬のために誂えた着物なのか、恋衣であろう。戸外は春雨がしづかに小止みなく降り続いていますよ、となろうか。

 喜寿を祝して刊行された『喜寿艶』には、次のような虚子の自註がある。
 「『恋の重荷』という謡曲がある。恋する者はそれだけ重荷を背負ふことになる。自分の力では運ぶことの出来ない程の重荷を背負ふことになる。衣桁には恋衣がかゝつて居る。重い恋衣がかゝつて居る。雨が降つてをる時には一層重いやうな心持がするその恋衣がかゝつて居る。」
 
 「春雨」は綯うような甘さの恋の初めを思わせ、「衣桁の恋衣」は一筋にはいかない恋の行方を暗示する。

 句集『五百句』の巻頭にこうした空想的な艶な作品が置かれていることに興味を覚えて句集を読み返した。すると、「道成寺」の釣鐘や「井筒」の井戸などが一曲の能のシンボリックな存在として能舞台に置かれたように、恋衣を掛けた衣桁も、能舞台の「作り物」のように思えてきたのだ。
 虚子は、句集『五百句』の構成を能舞台に見立て、能の「作り物」として第1句目にこの作品を置いたのかもしれないと考えてみた。『五百句』にはすべての句形が存在すると言われているこの句集である。能楽を愛した虚子らしい発想であろう。

  遠山に日の当りたる枯野かな  明治33年11月25日 虚子庵例会
 (とおやまに ひのあたりたる かれのかな)

 句意は、遠方の山に日が当たっている。前方には一面の枯野ですよ、となろうか。
 
 この句の解釈は、簡単そうであって、言葉にしてみると正確に捉えることももどかしさを感じていた。助動詞「たる」は「たり」の連体形で、普通は次の「枯野」にかかると思ってしまうからであろう。
 
 私が鑑賞の明快な糸口を得たのは、俳文学者・川名大著『現代俳句』上巻であった。
 「日の当りたる」の「たる」は存続の助動詞「たり」の連体形で、文法的には下の体言「枯野」にかかっているように見えるが、意味的、イメージ的にはここで大きな断絶がある。これは俳句特有の屈折した構成なので、慣れないと枯野に日が当たっていると誤解しやすい。
 「遠山に日の当りたる」が遠景、「枯野かな」が眼前の景である。
 
 この後に、『虚子俳話』を読んだ。
 
 自分の好きな自分の句である。
 どこかで見たことのある景色である。
 心の中では常に見るけしきである。
 遠山が向こふにあつて、前が広漠たる枯野である。その枯野には日は当たつてゐない。落莫とした景色である。
 唯、遠山に日が当つてをる。
 私はかういふ景色が好きである。(略)     (33・3・2)
 
 星野立子編『虚子一日一句』には、こうある。
 
 父の郷里、松山の東野あたりから見る景色である。何かの話から「父さんの好みは、と人に聞かれたら、遠山の句をいつて、これが父さんの好みですといひなさい」と話したことがある。