第四百九十六夜 高浜虚子の「桐一葉」の句 『五百句』第2日

 今日は、『五百句』の明治時代の後半の作品を2句紹介しよう。
 正岡子規が明治35年9月19日に亡くなった。だが子規により始まった俳句革新は未だ途中であった。子規の遺したものの1つは雑誌「ホトトギス」で、既に虚子が引き継いでいた。もう1つは、子規が選者であった日本新聞の俳句欄で、碧梧桐が継ぐことになった。
 『日本』の俳句欄は、子規派というより、すでに日本の俳道の中心となっていた。だが子規が亡くなり、子規選でなくなったことから投句者は忽ち激減した。
 碧梧桐は、子規から継承した「日本」俳句欄を充実させるべく、句会「俳三昧」を立ち上げて句作に精進した。また、東本願寺第22世法王の大谷句仏の助力を得て、全国行脚を始めた。旅の記事は「三千里」「続三千里」として日本新聞に掲載されると、碧梧桐派の賛同者は増え勢いは増した。
 この行脚中に碧梧桐は、新傾向論を打ち立て、作品の新調を押し進めたのだった。
 
 その後、自らの作品を高めるために、碧梧桐は句会「俳三昧」により、虚子は句会「俳諧散心」と「日盛会」により、互いはそれぞれ切磋琢磨してゆく。
 
 今宵は、そうした努力の日々の作品を見ていこう。

  桐一葉日当りながら落ちにけり  明治39年 俳諧散心
 (きりひとは ひあたりながら おちにけり)

 句意は、大きな桐の葉っぱが1枚、ゆっくりと日を浴びて輝きながら、落ちてきましたよ、となろうか。
 
 秋になって桐の葉が落ちることを「桐一葉」「一葉(いちよう)」という。広卵形の大きな桐の葉は、落ちるべき時が来ると、風がなくとも1枚ずつ自然に枝を離れる。
 中国の古典『淮南子(えなんじ)』に「一葉落ちて天下の秋を知る」とあるように、桐一葉は秋の到来を知らせる落葉だといわれる。
 掲句は青く澄んだ空から、舞い落ちてくる1枚の桐の葉。その葉表も葉裏も見せつつ落ちてゆく姿は、まさに桐一葉の一世一代の晴れ舞台だと言えよう。
 
 中七の「日当りながら」という描写があることによって、1枚の葉に焦点が絞られ、秋の強い光線をうけて輝きながら、葉の裏も表も見せながら落ちてゆく、スローモーションの美しい映像となった。
 
 「俳諧散心」は、明治39年3月14日から翌年1月26日まで、41回にわたり虚子を中心に行われた「ホトトギス」派の俳句鍛錬会。河東碧梧桐等の「俳三昧」に対抗したもの。

  金亀子擲つ闇の深さかな  明治41年8月11日。日盛会。第11回。
 (こがねむし なげうつやみの ふかさかな)

 句意は、室内の灯を目がけてぶんぶんと飛んできた金亀子(コガネムシ)を放り投げた。その庭に目をやると、外の闇は魑魅魍魎の暗躍しそうな真っ暗な闇でしたよ、となろうか。
 
 虚子が掲句を詠んだのは、今から110年以上も前。私の記憶のコガネムシやカナブンは昭和30年頃で60年ほど前。まだ家庭にクーラーはなく、夜、窓を開けていると網戸を目がけて勢いよくコガネムシやカナブンがぶつかってきていた。虚子の時代には、網戸もなく、電球にぶつかってくる金亀子を捕えては闇に放り投げたのであろう。
 
 虚子の自解(「自句自解」音楽を背景にしての俳句朗読原文『定本虚子全集』)には、次のように書いてある。
 「金亀子が夏灯を取りに来てぶんぶんと灯火をうなって飛んでいるのはよく見る処である。その金亀子をつかまえて窓外の闇へ放る、その闇は深く深く際限もなく続いてをる闇である、というのである。窓の外には一点の灯もともっていない、その庭の闇の深さを描いた句である。」
 
 金亀子を「放り投げる」ではなく「擲つ」としたところに、投げても何の手応えのない、質感のない闇の不気味さを感じる。二度と灯火に戻ってくるなという憎しみも籠めて擲ったのかもしれない。
 だが虚子が思わず金亀子を擲った瞬間に見た闇は、怖いものを見てしまったほどの深々とした暗闇であった。黄泉へ繋がる闇を見たと感じたのではないだろうか。

 「日盛会」は、明治41年8月、虚子を中心とした俳句修業で、ほぼ毎日8月末まで虚子庵で行われた。「俳諧散心」に集った会者に加えて、特筆すべきは、この会に当時早大生の飯田蛇笏が夏休みの帰省をせずに随時参加して活躍したという。