明治28年12月に虚子は子規から呼び出され、道灌山の茶屋で子規から俳句の後継者となることを懇願されたが、虚子は拒否した。何度目かの拒否であったが、それ以後は、後継者問題を拒否された子規も拒否した虚子も、俳句の革新に邁進しつづけ、さらに作品で確固たる俳人の地位を築きあげていったのであった。
明治35年に子規が亡くなると、子規門の双璧である虚子と碧梧桐の俳句観の互いの相違が徐々にはっきりしてきた。碧梧桐の進める新傾向俳句は、全国行脚する中で仲間が増え、一派を形成するほどになっていた。
この間の虚子は、もともと抱いていた小説家の夢を追いかける方へと傾いていた。ホトトギスは明治38年に漱石の『吾輩は猫である』の連載が始まって以降、部数が大幅に伸びると共に俳誌というより文芸誌の呈を表していた。しかしそれも漱石が朝日新聞社に入社し、ホトトギスに作品を発表しなくなると部数は忽ち落ちた。
明治の末期の虚子は、漱石に小説で一歩先んじられたこと、ホトトギスの部数減による経営不振、碧梧桐との俳句上の確執、そして虚子自身の胃腸病からくる体調不良など、それらが一気に押し寄せた時期であった。
昭和5年に創刊した星野立子の俳誌「玉藻」へ書き続けた虚子に、次の「運命に安んずる」という文がある。
人間はその日その日の出来事で、だんだんと運命づけられて来るものである。(略)
私にしたところで、「ホトトギス」というものを出しておることを、自分の荷厄介に感じたこともあった。他の天地に雄飛したいと考えたことも一再ではなかった。けれども私の運命は、遂に「ホトトギス」から離れることを得せしめずして、今日に至った。「無為無能にしてこの一筋につながる」といった芭蕉の言葉は頗る味わうべきものと思う。
虚子が一番に考えたのは、子規と共に築いてきたホトトギス、虚子一家の生活基盤でもあるホトトギスの経営の立て直しだった。ホトトギスは「私の衣食の途を求めたいため」に虚子自らが引き受けたものであった。
だから虚子にとって「運命に安んずる」の運命とは、切っても切れないホトトギスのことであり、このホトトギスを先ずどうにかしなければならなかった。
大結社「ホトトギス」の主宰者とは、今で言えば、出版社の社長であり、敏腕編集者であり、俳句の指導者であり、先頭をゆく俳句作家である。
虚子は初めて本気で俳句主宰者として立ち上がった。ほぼ20年の間に子規から学んだ「自らを恃(たの)む」ということを子規没後10年経った今、虚子は身を以て体験しているが、最大のピンチが最大のチャンスとなるように、明治の末期、あらゆる機が熟していたのであった。
今宵は、大正初期の虚子の俳壇復帰を、作品とともに考えてゆこう。
霜降れば霜を楯とす法の城 大正2年1月
(しもふれば しもをたてとす のりのしろ)
句意は、霜が降れば霜から守る武器として、同じ霜という武器を用いて、私は伝統俳句の居城であるホトトギスを守ってゆくのですよ、となろうか。
「法城(ほうじょう)」とは寺院のことで、仏法が諸悪から護ってくれる城に喩えたもの。虚子にとって「法の城(のりのしろ)」ともいうべき伝統俳句の居城・ホトトギスを霜の降る寒い冬には霜を楯(=恃み)として守るのだという虚子の気概が溢れた作。
「霜を楯とす」は、どういうことかずっと解らないままであった。一見、激しい闘志を思うが、矛でなく楯とある。対抗する相手は新傾向俳句だ。虚子は、相手を突く矛(ほこ)でなく防御としての楯を武器としたのだ。新傾向俳句、或は碧梧桐と闘うのではなく、虚子自身が霜のような凛とした厳しさで伝統俳句の道を護ってゆく覚悟ではないだろうか。
このように考えたとき、「守旧派」という言葉とともに次の言葉に合点した。
自分の守るべきものを、虚子は「曰く、風吹けば風を楯とし、雨が降れば雨を楯とし、落葉がすれば落葉を楯とし、花が開けば花を楯として」と言い、強い決意が窺われる。
この作品は、1月19日鎌倉虚子庵での作。前年からの病臥は続き虚子は寝たままで句会であるが、攻めの姿勢に溢れた作品であると言えよう。
一つ根に離れ浮く葉や春の水 大正2年
(ひとつねに はなれうくはや はるのみず)
「ホトトギス」12月号に連載した「俳句の作りやう」の中で、「じつと案じゐること」の例句として挙げた作品である。落葉が水底に朽ちて、根や茎だけが見えていたりするのが春の水である。繋がっている根の先を目で追うと、茎が出て葉が付いている。「ああ、繋がっている、生きている、春だ」という発見。自然の小さな命のかがやきを讃美することも、写生をすることで得られる俳句の世界である。
俳壇復帰した虚子が最初にした雑詠欄「ホトトギス」の刷新は、明治45年7月の「雑詠欄の復帰」であった。半年後の大正2年、「ホトトギス」1月、2月、3月号の巻頭ページにおいて宣言した、
1月号では「新傾向に反対する事」と高札を掲げ、2月号では「本誌は平明にして余韻ある俳句を鼓舞して俳句界の王道を説かんと欲す」と述べ、3月号では「守旧派宣言」をした。