第五百二夜 高浜虚子の「春霞」の句

 もう20年も前のこと、早稲田大学坪内博士記念演劇博物館で能面展を観た。木造の古い建物は、次の面へと歩を移すたびに床板はミシミシと音をたてる。お客は私1人という静かな会場の、隅っこに監視員の男性が1人、退屈で所在なげに椅子に腰掛けていた。その監視員は私のたてるミシミシにきっと耳を傾けていたに違いない。

 その時は現代能面作家の作品展で、橋岡一路作の「おもかげ孫次郎」も出品されていた。三井文庫の特別認可を得た本面「孫次郎」の写しである。数年前に三井文庫で出品されたとき、本面と写しと2つ並べて展示されていた。三井文庫は、当時研究員であった友人から時折入場券をいただいては出かける小さな美術館であったが国宝が展示されたりする。しかも、いつも空いているから、能面「孫次郎」だったり黒楽の茶碗だったり雪舟の屏風だったちなど、凄い品々と好きなだけの時間向き合っていられるのだ。

 面との最初の出会いが、そんな空間での「孫次郎」であった。おそらく一番最初に好きな面に出合ってしまったのであろうが、この「孫次郎」は本当にバランスの取れた面だと思う。凛とした美しさ、儚さ、こよなき優しさ、そして頼りなげな淋しさをも漂わせてもいる、あらゆる女性の美徳を具えた、特に品格の高い、面であったのが幸せであった。
 
 又、ある年の暮のこと、国立能楽堂で、歌人馬場あき子の新作能「晶子・・みだれ髪」を観た。新劇俳優の松橋登が、背広を着て、白足袋姿で、能舞台に現れたのには驚いた。能舞台に上がる人は誰れも白足袋を履く決まりだということを、その時初めて知った。
 物語を説明する狂言廻しのような青年役の松橋登の台詞は、新劇調なのでよくわかった。
 辻村ジュサブローが能装束の制作をした。色調の少しずつ違う衣装に描かれた三様の穂芒が、与謝野鉄幹、晶子、山川登美子の情念に今にも炎え立ちそうであった。
 その折、晶子役の着けた面が「孫次郎」であった。
 
 古典に疎い私は、俳句に詠まれた言葉の難しさに戸惑い、少しずつお能、歌舞伎、文楽などを観るようになった。色々な細い糸がだんだんと繋がってくるのも愉しい。
 
 今宵は、高浜虚子のお能の世界を見てみようと思う。

  春霞永久に羽衣物語 『七百五十句』 
 (はるがすみ とわに はごろもものがたり)

 掲句は次のようであろうか。
 虚子は兄信嘉の追善能開催を伝える原稿を書きながら、兄の永久の願いだった能楽振興へ思いを馳せた。しかし今や兄信嘉の奮闘もあって、能楽は永久に絶えることなく続くだろう。
 兄信嘉の追善能で行われる「羽衣」は、小書の中でも重く扱う「彩色之伝」といわれ、最も位が高く、囃子方をはじめ演者が一丸となって心と技を尽くして創る舞台であるという。正に、能楽界に尽力した信嘉を追善するのに相応しい演出である。
 
 追善能が行われたのは、昭和32年4月29日。時は霞も美しい春。
 これまでに演じられた名人の「羽衣」、これからも永久に演じられる「羽衣」。天冠と羽衣を着けて三保の松原の春景色を讃え舞いながら春霞の天空の彼方へ消えた天女のように、能楽界へ永久なるエールを遺して逝った兄信嘉を偲ぶ虚子の気持が、この「永久に羽衣物語」であった。
 
 私は、虚子の句の背景を知りたくなり、謡本や能楽書籍を刊行しているわんや書店の編集部に問い合わせた。
 昭和33年に開催された信嘉の追善能の演目は、宝生九郎の「放下僧」、観世元正の「羽衣」(彩色之伝)、喜多實の「融」であったという。演目の1つが「羽衣」であったことを確認することができて、飛びあがるほどうれしかった。
 その後、私は夫を運転手役として強引に誘って、三保の松原で薪能「羽衣」を観に行った。

 高浜虚子の曾祖父高浜高年という人は、能の盛んな松山藩の藩公の鼓の相手をしたり、特に召されて地頭を勤めたりした。
 虚子の父信夫は、旧藩時代は地謡方、廃藩後は東雲神社能の地頭であった。
 虚子の兄信嘉は、鉄道会社の重役の地位を捨てて上京し、明治になって凋落をたどりつつあった能楽を何とか元に戻そうと、能楽振興、楽師の養成に一身を抛ち、雑誌「能楽」を創刊したり、能に一生を捧げた人であった。
 虚子の能好きも当然であろう。