雲雀をはっきり見たのは、茨城県へ転居してからである。東京の友人が遊びに来てくれると、春には必ず小貝川沿いの福岡堰という桜の名所へ案内した。小学校時代からの友人夫婦をお連れしたのは、4月の半ばの晴れわたった日。福岡堰の桜はちょうど満開から花吹雪が始まった頃で、持ち寄ったご馳走を食べたあとは、元気のいい友人夫婦は、堤の上も河川敷の原っぱも駆け回っていた。
その時、「雲雀よー!」と声がするので、友の声と雲雀の鳴き声を追うと、なんと、1羽の雲雀が上へ上へと鳴きながら登ってゆく姿であった。ずいぶんと長い時間をかけて鳴きながら一直線に真上を目指して登ってゆくのだと初めて知ったが、これまで見たことがなかった。
身を反らせて見上げていたから、かなりの高さまで登っていったのだろう。すると、今度は鳴き声は立てないで、真っ逆さまに落ちてくるではないか。驚いて眺めていたが、これが「落ち雲雀」で、降下のスタイルであるという。
草むらに落ちたので目を凝らしたが何処かわからなかった。次に見かけたのは、少し離れた草むらであった。どうやら近くに雲雀の巣があるらしい。鳥や動物たちに見つからないように、離れた場所に落ちて、草かげを歩いて巣に戻るという。
囀りがいかにも春らしく、中空でうたい、一直線に地に降りるが、これを「落ちる」という。
日本の和歌では「万葉集」の大伴家持の、「うらうらに照れる春日にひばり上がり 心かなしもひとりし思へば」が有名である。
歌意は、うららかに春の日が照っている空にむかってひばりが上がってゆきますよ。でもこんなとき、ひとりで物思いにふけっていると何故か心が悲しくなってくるのです、となろうか。
今宵は、「雲雀」の作品を見ることにしよう。
雨の中雲雀ぶるぶる昇天す 西東三鬼 『新歳時記』平井照敏編
(あめのなか ひばりぶるぶる しょうてんす)
句意は、雨が降っている中を、1羽の雲雀が鳴きながら身を震わせるようにして空へ登っていきますよ、となろうか。
繁殖形態は卵生。繁殖期が始まるとオスがさえずりながら高く上がってゆくが、これが「揚げ雲雀」と呼ばれる縄張り宣言の行動である。メスは、地上の麦畑や野原で、巣を作り、抱卵している。
この巣が襲われないようにオスの雲雀は、雨の中であろうと、縄張り宣言をしに空高く一直線に登ってゆく。「ぶるぶる」とは、羽をゆすりながら登ってゆく形であろう。
「昇天」には、死の意味もあるが、ここは、雨の中を空高く登りながら決死の縄張り宣言をしているオスの雲雀の姿を、三鬼は「昇天」と、捉えたのだと思った。
西東三鬼(さいとう・さんき)は、戦前の新興俳句勃興期に新興俳句の旗手と呼ばれて登場。戦後は山口誓子の影響をうけて、〈枯蓮のうごく時きてみなうごく〉など即物的な表現を得た。
テキサスの雲雀野空に継ぎ目なし 渡辺良一 『蝸牛 新季寄せ』
(てきさすの ひばりのそらに つぎめなし)
句意は、テキサスの雲雀野も空もなんと広大なのであろう。果てしなき雲雀野も果てしなき空も、継ぎ目もなく繋がっているようですよ、となろうか。
メキシコ湾に面したアメリカ合衆国南部の州で、アラスカに次いで2番目に大きい州である。アメリカへ旅をしたことのない私は、テキサスといえば、今でもカウボーイがいるように思うこともあるが、『アラモ』は長い映画であったが感動したし、ナサの宇宙センターからのニュースはいつもわくわくしている。
作者の渡辺良一氏は、お仕事でテキサスを訪れたのかもしれないが、この作品の素晴らしさは、テキサスの広大さを、1つは、小鳥である雲雀の鳴きわたっている野原を、1つは広大無辺の空を、この2つを並べたことで、なんとも素朴な、テキサスが見えてきた。
「継ぎ目なし」という具体的な描写が広大さを引き立てている。