第五百五夜 矢島渚男の「陽炎(かげろう)」の句

 陽炎とは、雨降りの後など水蒸気が地面から蒸発して上昇してゆくとき、空気がかき乱され、それを通して遠くの物体がゆらいで見える現象である。 光の屈折率の変化によって起こる現象で春に限ったものではないが、のどかな感じがするので春の季語としている。

 陽炎に似た現象に蜃気楼がある。春から夏にかけて全国の海岸でかつては見られたというが、現在は富山湾の蜃気楼が有名である。何がどんなふうに見えるのだろうか。ないものが見えるわけではなく、対岸の実際の光景が逆さまになったり、伸びたり、縮んだりした形に見えるのだそうである。
 「海市(かいし)」「貝櫓(かいやぐら)」ともいう。
 
 雨上がりのゴールデンウィークの東京へ帰る途中の、渋滞の中央高速道で遭遇したことがあった。夕焼け色にそまった水蒸気の中で、ふわふわした不思議な感覚で運転しながら、「これが陽炎かしら?」と思った。
 
 今宵は、「陽炎」の作品をみてみよう。

  陽炎や遍路をのせて道白し  矢島渚男 『蝸牛 新季寄せ』
 (かげろうや へんろをのせて みちしろし)

 句意は、遍路さんが陽炎のもえたつ道を歩いている。ゆらゆらしている陽炎の白い道は、遍路さんが歩いているというより、遍路さんを載せてゆらゆらしているようですよ、となろうか。

 この作品の「遍路をのせて」が鋭い把握でありながら、陽炎のゆらゆらした感じが遍路という長い修行の旅路であり、その仏道修行の道は白く清らかであって、お遍路さんの心の動きもこのようではないかと感じさせてくれる。季語「陽炎」は気象現象であるが、それだけではない心象的なことも含まれていようか。
 「遍路」は、四国八十八ヶ所の霊場を巡り歩くことだが、お遍路さんも「遍路」と言う。ここでは「お遍路さん」のこととして解釈した。

  原爆地子がかげろふに消えゆけり  石原八束 『新歳時記』平井照敏
 (げんばくち こがかげろうに きえゆけり)

 句意は、かつて原爆の落とされた広島市、或は長崎市でもいい。その地を訪ねたときのこと、目の前を歩いていた子が陽炎に消えてしまいましたよ、となろうか。
 
 春の終わりか初夏の頃であろう。陽炎の立つアスファルトの街はゆらめいていた。今まで視界にあった子どもがふっと視界からいなくなったとしても、この街はかつて原爆の落とされた場所だ。陽炎の燃える炎と原爆のきのこ雲のイメージは街を歩いている間も消えることはない。
 たとえば、子どもが横丁を曲がり作者の視界からいなくなった瞬間に「かげろふに消え」てしまった、と思っても不思議ではない。
 掲句は、広島を訪れた際の作品の1つで、原爆の地なればこその心のゆらぎであろう。

  陽炎につまづく母を遺しけり  福永耕二 『山本健吉 基本季語五〇〇選』
 (かげろうに つまづくははを のこしけり)

 前書に「父死す」とある作品。
 句意は、父は、ゆらゆらした陽炎の道を歩いていても躓いてしまうほどの母を、遺(=残)したまま先に天に召されてしまいましたよ、となろうか。
 
 「陽炎につまづく母」とは、お父さんにとってさぞ可愛らしい妻であったと思われるが、お父さんは一緒に歩くときには、お母さんが躓かないように、さっと手を出して支えてあげるように、エスコートしていたのだろう。
 だが「陽炎につまづく」とは、石とか物に当たって転ぶという具体的なことだけではないような気がする。ナイーブな傷つきやすい心を持つ妻を気遣い、放ってはおけない父であったのだ。
 季語「陽炎」を、気象学的でなく、掲句では心象的なゆらぎとして詠んだのではないかと思った。
 ずっと母を抱くように護ってきた父だから、母を遺してゆくことはさぞかし無念であったにちがいない。
 福永耕二(ふくなが・こうじ)も〈子の蚊帳に妻ゐて妻もうすみどり〉の句のように優しさあふれる夫であったからこそ、この父の気持を大切に受け取っている作者の心が見えるようである。

 「陽炎」は、どの句にあっても、実態として手に取ることのできないものであった。