第五百六夜 深見けん二の「花に死す」の句

 もう2週間ほどになろうか。取手から守谷をぬけて国道の入口まで続いているのが、ふれあい道路である。桜並木と銀杏並木が半々くらいで連なっているが、今やっと、桜が満開になってきた。
 
 第四百八十九夜の「千夜千句」で紹介したのは、東京で開花宣言のあった翌日であった。守谷で最初に目に入ったのは黒々とした幹に、朝日に輝く雫のような花をぽつぽつ見かけた。白いというよりも陽に透けて水のように雫のように感じられた。
 
 その日から、毎日のように買物に合わせて内緒で花見のルートを考えて出かけている。夫にはとっくにお見通しであるが。
 ここ数日は満開となってきているが、高浜虚子の〈咲き満ちてこぼるる花もなかりけり〉の句のような桜大樹が街道沿いに連なっている。坂道のくねくね曲がっている街道なので、白い大蛇を思わせる。
 
 少しの落花はあるが、花びらに埋もれそうな落花は、あと数日先だろう。空の青さによって花の白さも違ってくる。青空の中によき風も吹いてほしい。
 
 今宵は、深見けん二先生の「桜」「花」の句を考えてみたいと思う。

  花に死すといふこと父よ寿  『雪の花』
 (はなにしす ということちちよ いのちなが)

 句意は、長いこと病んでいる父よ、桜の花の満開のなかで死ぬ「花に死す」という言葉もあるが、そのように考えず、父よ、どうぞ長生きしてください、となろうか。
 
 句意をとることはむつかしかった。「寿(いのちなが)」は、目出度い言葉ではあるが、祈りと願いを込めた文字である。
 けん二先生は、父を同じ専門分野で学ぶ師として尊敬し、また父親として心から尊敬している。脳血栓で半身不随となり長いこと病床にあった父を、お母様と奥様が看病されていた。お父様は感情を表すこともなく物言いの静かな方であったという。
 
 けん二先生が、お父様を詠んだ作品はたくさんあったが、私は、句の最後に置かれた「寿(いのちなが)」に強く惹かれた。

  我も又虚子座の星ぞ花の空  『余光』
 (われもまた きょしざのほしぞ はなのそら)

 句意は、満開の花の空を仰いでいますと、私もまた大勢の虚子座の星の1つであることを思いますよ、となろうか。
 
 けん二先生の俳句作品からも、句会でのご指導からも、著書からも、19歳でホトトギスに入会し虚子に師事して以来ずっと、俳歴80年の間に一度も心が揺らぐことがなかったことが伝わってくる。
 「虚子座の星」とは、大きな銀河系なのだと感じている。「虚子座の星ぞ」の「ぞ」と言い切っている、凄い、いつか私も「そうなりますぞ」と、言える日が訪れますように!

  枝々に重さ加はり夕桜  『日月』
 (えだえだに おもさくわわり ゆうざくら)

 句意は、夕桜というのは、昼間の陽光のなかでの桜と違って、枝々にずっしりと重さが加わったように見えますよ、となろうか。
 
 この夕桜は満開だと思う。昼間の桜は、満開であっても太陽の光にかがやく軽やかさがある。夕暮れ時には、風がすっと止む時間帯もあって、ゆれることもなく、みっしりした満開の桜の枝々が重そうに静止している姿となって視界に入ってくる。

  大雨の洗ひし空や朝桜  『蝶に会ふ』
 (おおあめの あらいしそらや あさざくら)

 句意は、大雨の後の空は洗われたように美しいことがある。そのような日の朝桜もまた花びらの1つ1つまで洗われたようで、白くかがやいていましたよ、となろうか。
 
 「大雨の洗ひし空」には、大雨が空中の汚れを洗い流したという、想像のスケールの大きさがある。洗いたてになった空からの日差しによって朝桜もまた花の1つ1つが美しく煌きはじめたというのであろう。

  白雲はなびき桜はうちなびき  『菫濃く』以後
 (はくうんはなびき さくらはうちなびき)

 句意は、空の白雲と地上の桜のゆれ方の相違をこのように詠んだのですが、見上げる空の白雲は風のながれのままに動いていて、一方、桜は大揺れにゆれて、なびき伏されそうになりましたよ、となろうか。
 
 この桜は、美しく花満ちた桜大樹であるにちがいない。「白雲はなびき」からは空の上も風が強いことが伝わってくる。「桜はうちなびき」と「うち」があることによって、地上の風はさらに強く、桜大樹はゆさゆさと倒れんばかりに大きく揺れている。
 「なびき」と「うちなびき」の言葉の違いで、これほどの光景となった。