第五百十二夜 山田閠子の「みどりさす」の句

 山田閠子さんは、深見けん二先生が「花鳥来」を立ち上げる準備をなさった「F氏の会」からの会員であり、現在の編集長である。
 
 第4句集『今日の風』のあとがきに、「白寿を迎えられる深見けん二には、「F氏の会」以来身近に置いていただき、身に余るご指導を賜りましたことに心より感謝申し上げます。」と書かれていたが、「花鳥来」において、それだけのことをされてきた閠子さんである。
 
 今回、閠子さんの全句集4冊を読み、あとがきを読む中で、わかったことは、大家族の中で育ち、結婚後はお姑さんに35年お仕えしたということであった。大変なこともあったであろうが、人として多くを学んでこられたことを思った。
 
 今宵は、山田閠子さんの作品を紹介させて頂く。

  師とすごすひとときみどりさす森に  『今日の風』第4句集
 (しとすごす ひととき みどりさすもりに)

 句意は、午前の日差しの差し込む新緑の森に、師の深見けん二先生と「花鳥来」の吟行をご一緒しているのですよ、となろうか。
 
 ご高齢になられ、足腰が弱られてからは、編集長の閠子さんと車を運転する編集委員が付き添われている。当日の句会の作品づくりをしているのだが、季題と対峙する師を間近にすることは、なににも変え難い素晴らしい刻を共有していることである。
 ひらがなで詠まれていることから伝わってきたことは、ながい時間を共にしているのに、師の黙のなかへ踏み込むことはないということだ。

  ぽぽぽぽと灯れる如く梅ふふむ  『向き合うて』第2句集

 句意は、梅の莟は、1本の枝に等間隔にでて、莟は下から順番に開いてゆく。その様子はぽっぽっと灯が順にともってゆくようですよ、となろうか。
 
 かなり長いことこの作品を理解できなかった。春が来るたびに気になり、ようやく梅の莟からずっと眺めたのは何年も経ってからであった。近所の枝垂れ梅を毎日のように眺めていて、初めて理解できた。
 それにしても「ぽぽぽぽと」「ふふむ」の調べの良さは見事だ。確かに、枝の付け根の方からまあるい花芽が順に咲くのは「ぽぽぽぽ」がじつに相応しい。

  種袋風のやうなる音をたて  『佇みて』第3句集
 (たねぶくろ かぜのようなる おとをたて)

 句意は、花の種袋は殊に軽い。振ってみると、さやさやと風のような音がしていましたよ、となろうか。
 
 掲句の素晴らしさは「風のやうなる音をたて」である。それほどに種は軽い。
 守谷にきて、農家の人に畑を存分に使ってくださいと言われた夫は、喜んで花も葉菜も根菜までも作っているが、毎年、種を入れた袋を前に、「触るなよ」「捨てるなよ」と、私に厳命して種を大事にとっておく。でも、種袋を振って音を聞いたことはある。

 閠子さんが、ホトトギス主宰の稲畑汀子先生と吉野へ毎年ご一緒するようになって、もう15年以上あまり経っている。
 第4句集『今日の風』のⅤ章「花の絵巻」より紹介させて頂こう。

 1・朝まだき黙を解かざる桜かな
  (あさまだき もだをとかざる さくらかな)
 2・語るまじ云ふまじ花の闇のこと
  (かたるまじ いうまじ はなのやみのこと)

 閠子さんの「花の絵巻」は何年も旅を重ねたことによってしか詠めない圧巻の作品であった。
 1句目、早朝の吉野山。左手を見ながら登ってゆくと、山桜のしろじろと広がる深い谷だ。朝桜は風もなく静まりかえっていることが多いが、谷一面が、花の色も山の音もなにもかもが沈んでいて、まさに「黙」の刻。
 2句目、吉野山の奥に咲く満開の桜の下は、迷い込んだら逃れられない恐しさが迫ってくる、そんな「花の闇」なのであろう。「語るまじ云ふまじ」から、花に憑れた恐怖を感じた。

 山田閠子(やまだ・じゅんこ)は、昭和19年(1944)、東京新宿に生まれる。昭和52年、「ホトトギス」入会。昭和62年、「ホトトギス」同人。平成元年、「花鳥来」入会。「花鳥来」編集長、日本伝統俳句協会会員、俳人協会会員。句集は、『育みて』(邑書林)、『向き合うて』(花神社)、『佇みて』(角川SSコミュニケーションズ)、共著は、深見けん二監修『虚子「五百句」入門』(蝸牛新社)。