第五百十三夜 星野立子の「虚子忌」の句

 今日4月8日は、仏生会であり虚子忌である。昭和34年4月1日に脳溢血で倒れた虚子は、お釈迦様の誕生日の仏生会に亡くなられた。墓所は鎌倉扇ケ谷の寿福寺にあり、今井つる女の〈年々の虚子忌は花の絵巻物〉とあるように桜の下で毎年盛大な忌が修せられる。
 その他に、生前墓が2つある。1つは昭和28年10月、比叡山延暦寺の横川中堂に逆修爪髪塔として供養塔が建立された「虚子之塔」で、2つ目は、千葉県君津市にある鹿野山神野寺に虚子の歯塚が建立され、昭和33年7月20日、歯塚除幕式がとり行なわれた。それぞれ、没後に遺骨が分骨されている。
 鎌倉の寿福寺には何回か訪れた。虚子の本を書き始める前など1人で、ご挨拶の気持ちで出かけたこともある。
 千葉県の鹿野山神野寺にある歯塚には、ある年の元日、私は夫と出かけた。虚子を廻るたくさんの俳人の句碑も建っていて賑やかであった。
 
 今宵は、虚子忌の作品を紹介してみよう。

  虚子忌とは斯く墨すりて紙切りて  星野立子 『句日記Ⅰ』
 (きょしきとは かくすみすりて かみきりて)

 句意は、虚子の句会では清記も選句も必ず筆で半紙に書いた。立子はいつも虚子のために墨を磨っていた。虚子が亡くなっても虚子忌には、以前と同じように墨を磨って紙を切っていますよ、となろうか。
 
 立子は虚子が1日に倒れてから亡くなる8日までを思い出していた。
 
 1・春雷や刻来り去り遠ざかり  『春雷』
 (しゅんらいや とききたりさり 遠ざかり)
 2・なぜ泣くやこの美しき花を見て  『春雷』
 (なぜなくや このうつくしき はなをみて)

 1句目、虚子の死の直前の4月6日、母いとの願いで、能役者の高橋すすむは「鞍馬山」を謡った。虚子も口を動かして確かに謡っているように見えた。謡が終ると突然風が吹き花が散り春雷が鳴ったという。
 立子は父虚子の死が近づくのを感じた。「刻来り去り遠ざかり」で、春雷の閃きの中に死の訪れも瞬時であることを見事に表現した。
 2句目、虚子が亡くなったときの句。悲しみの中で虚子庵の桜を見ていると満開の樹は、しきりに花を散らしている。虚子とともに観た年々の桜を思うと、立子は涙がこぼれるのであった。

  椿寿忌や山に谺す大木魚  河野静雲 『ホトトギス 新歳時記』
 (ちんじゅきや やまにこだます だいもくぎょ)

 句意は、今日は椿の好きな虚子の亡くなられた日。忌を修している木魚の音が大きく響き山に谺していますよ、となろう。
 
 この山は、鎌倉寿福寺の山なのか、また河野静雲(こうの・せいうん)は僧侶であったので、創建した福岡県の花鳥山佛心寺でのことか、この日、俳句の師の忌日の木魚を山々に響くほど叩いたということだろう。

  老いて尚妓として侍る虚子忌かな  下田實花 『ホトトギス 新歳時記』
 (おいてなお ぎとしてはべる きょしきかな)

 句意は、老いてもまだまだ芸妓として働いていますが、今日の虚子忌の集いにも妓としてこの座に控えているのですよ、となろうか。
 
 下田實花(しもだ・じっか)は、一時ホトトギス社に勤務していたが、新橋で芸妓として活躍。実母の死により幼い頃に下田家の養女となって、離れて育ったが、山口誓子は実の兄。

  温顔もくぐもる声も虚子忌来る  深見けん二 『菫濃く』
 (おんがんも くぐもるこえも きょしきくる)

 句意は、19歳で虚子に師事し、稽古会、新人会、研究座談会で花鳥諷詠を研鑽し、17年余りの歳月を虚子の晩年の弟子として身近に過ごすことができた。毎年の鎌倉の寿福寺での虚子忌に参加しているが、いつも思い出すのは、師の温顔とくぐもったお声ですよ、となろうか。
 
 虚子は寡黙なお方で温かみのあるやさしいお顔、そしてお声は、くぐもった静かなお声だったという。 虚子の亡くなられたのはけん二37歳で、寿福寺での葬儀では裏方の1人であったという。
 
 平成21年、私は、県立神奈川近代美術館で開かれた「虚子没後50年 子規から虚子へ—近代俳句の夜明」展で、虚子のお声をお訊きした。私には「ぼそぼそ」したお声に感じた。