第五百十四夜 五十嵐播水の「春の虹」の句

   小さい寂しさ        武者小路実篤

 時々、別に理由もなく寂しさを感じることがある。こう言う時、何か書きたくなる。書くことでその寂しさに打ち克つことが出来る気になる。だからこの寂しさを感じることは悪いこととは思わない。何かに餓えている。それもごく静かに淡い。何かを求めている、その求めているものは何か自分にもわからない。そう云ふ時、何か仕事がしたくなる。何かに親しみを感じる、自分の心を打ちあけたくなる。(略)
 しかしこの寂しさは人を真面目にする。しんみりさせる。正直に何か求めさせる。謙遜にしてくれる。
 だから僕はそう云う寂しさを、清いものとして愛するのである。馬鹿にしたくないと思っている。
 清い憧れである。
                    『現代日本文学体系33 武者小路実篤集』筑摩書房

 今宵は、「春の虹」の句を紹介してみよう。
 
  うすかりし春の虹なり消えにけり  五十嵐播水 『新歳時記』平井照敏編
 (うすかりし はるのにじなり 消えにけり)

 句意は、うすうすとした春の虹が見えましたよ、しばらくして直ぐにきえてしまいましたよ、となろう。
 
 「春の虹」とは、まさにこの句の通りである。
 昨日の夕方、私は今年はじめての虹を見た。春に初めてあらわれる虹が「春の虹」で「初虹」ともいう。朝から晴れていたのに、空の一角に急に黒雲があらわれるや、雷が鳴り、雨が勢いよく降ってきた。外に出していた犬を家に入れようとして玄関に出てゆくと、雨はもう小降りになった。雲の動きが早いので通りまで出て見上げると、東へ進む黒雲に重なるようにして虹が架かっているではないか。夫に声をかけた。
 
 今日は凄い! 「初雷」を聞き、「初虹」を見ることが出来た。清明第三候に「虹始めて見ゆ」とあり、4月中旬頃に見えるという。夏の虹ほどあざやかではなく、淡く、消えやすいという。
 しばらくして再び通りへ出てみたが、もう消えていた。
 どんな季節でも虹を見かけると子のようにうれしくなる。何度か出会ううちに、虹の出る方向がやっとわかってきた。西から雨雲が通りすぎると東の空に虹はかかる。雨が通りすぎた後の反対方向にかかるのだそうだ。小学校で学んでいたらしいが、宇宙の基本的なことはすっかり忘れている。
 
 もう少し、紹介してみよう。
 
 1・春の虹消ぬまでの物思ひかな  中村苑子 『現代歳時記』
 (はるのにじ けぬまでの ものおもいかな)
  
 2・落書にいさゝかの毒春の虹  飴山 実
 (らくがきに いささかのどく はるのにじ)
   
 3・ひとごとのやうな寂しさ春の虹  平井久美子 『現代歳時記』
 (ひとごとの ようなさみしさ はるのにじ) 

 1句目、「春の虹」はどこか「春愁」に似たところがあるように感じた。中村苑子の「物思ひ」は決して明るいばかりではないであろう。
 2句目、中七の「いさゝかの毒」はかなり強烈な言葉の落書だったと思われるが、季題「春の虹」の特性を考えれば、すぐに忘れられるほどの落書。教室で休み時間に黒板に書いた落書きであれば、黒板消しですぐに消えてしまう。
 3句目、春の虹に寂しさがふっと過ぎったとしても、その寂しさは他人事のように、すぐに消えてしまった、となろうか。

 共通していることは、春の虹は「淡く、消えやすい」ということから、短い瞬間によぎる心の内を詠んでいることである。