第五百十五夜 長谷川素逝の「木の芽」の句

 この1ケ月ほど、3月半ばから桜を追いかけていた。桜のソメイヨシノは4月の初めには散りはじめ、白い光景は消えてしまった。すると入れ替わるように桜から葉が出てきた。今年の春はあたたかくなるのも、花が咲いて満開になるのも、花の散るのも早かった。
 それに、木の芽が出てからは、あれよあれよという間に、雑木林も街路樹も緑が増えてきている。
 
 今、私が追いかけているのは、八重桜である。守谷市にある四季の里公園には、見事な八重桜の大木が30本も並んでいるだろうか。今朝、早くに出かけて行くと、八重桜の満開の賑やかなこと! 満開もいいけれど、待っているのは、花びらたっぷりの落花である。できることなら花吹雪の下に佇ちたい。落花のふかふかした道を、足裏の心もとない感覚をふたたび味わってみたい。
 
 今宵は、季題の本意をもっと知っておきたいと、「木の芽(このめ)」の句を紹介してみよう。

  木の芽だつけはいしづかにたかぶれる  長谷川素逝
 (このめだつ けはいしずかに たかぶれる)

 句意は、木の芽が出てくるころになった。「木の芽たつ気配」とは枝がゆっくり膨らんできて木の芽がひょこっと顔を出すことだが、毎日のように枝の先を眺めていると、目にするのは出てきた木の芽だが、そこに至るまでのうごめきは、春が来ることへの木々の昂りかもしれないが、しかし静かな幽かな気配なのですよ、となろうか。
 
 春になるということは、芽吹き出すということは、木にもこれほどにナイーブな心があって、その木から生まれてきた木の芽であることに、新鮮な驚きを感じている。
 
 長谷川素逝(はせがわ・そせい)は、明治40年(1907)- 昭和21年(1946)、三重県津市の生まれ。高浜虚子に師事。日中戦争に砲兵少尉として出征し、作風は繊細で客観描写を土台とするが、多くの戦争俳句を詠んだ。

  木々おのおの名乗り出でたる木の芽かな  小林一茶 
 (きぎおのおの なのりいでたる このめかな)

 句意は、落葉樹たちは、おのおのが「クヌギです!」「アカシデです!」「ミズナラです!」「カバです!」「クリです!」と、木の名を告げているかのように、木の芽を出しているのですよ、となろうか。
 
 木の芽時の雑木林の木々たちは、木の芽を出して見せることで、自己紹介をしているのかもしれない。小さな木の芽だけでは違いがわかりにくいけれど、たとえば、クヌギは木の芽の先に、木の芽と同じ色の小さな花を垂らしている。
 私が、父と出かけた雑木林で初めて覚えたのが、クヌギの芽吹きであった。確か、幹の違いも同時に教えてくれた。
 「クリ」は葉も花も長くて独特で、食物としても身近な木だから誰でも知っている。

 ずいぶん昔のことで忘れてしまった木の芽の方が多いが、今日は改めて、木の芽は木々の名乗りであるという一茶の句も知った。
 春には必ず行っている茨城県の「蛇沼」へ、来週は行く予定になっている。去年の春は、高木のヤマザクラの落花と木の芽を同時に見ることができた。