第五十一夜 河東碧梧桐の「冬薔薇」の句

  思はずもヒヨコ生まれぬ冬薔薇  河東碧梧桐 明治三十九年
 
 句意は次のようであろう。
「驚いたことに今日、鶏小屋を覗くとヒヨコが生まれていましたよ。庭には冬薔薇が咲いています。」
 
 鑑賞してみよう。
 この作品は、取り合わせ(=配合)の句である。「思はずもヒヨコ生まれぬ」からは、正岡子規が碧梧桐の特長であると褒めたように、写生の眼と即物描写が行きとどいている。
 そして「冬薔薇」との配合からは、思いがけず早くに生まれたヒヨコを見た喜びと冬薔薇の明るさが自然な形で立ち上がっている。これは現代俳句では当たり前のように存在している配合の句である。

 河東碧梧桐(かわひがしへきごとう)は、明治六(1873)年愛媛県松山の生まれ。虚子と碧梧桐は、俳句革新した正岡子規門下の双璧と呼ばれるようになり、明治三十年に松山で創刊した「ほととぎす(後にホトトギス)」に参加した。
 碧梧桐は、明治三十五年に子規が亡くなる頃から「新傾向俳句」を唱えて俳句界を一時席巻するようになってゆく。

 事実をそのまま直叙することを、中心を作らない無中心であるとして碧梧桐は、新傾向俳句の論理的裏付とした。新傾向の作品というのは、結果として無中心の直叙の背後から立ち顕れてくるものは、事実とは別の新たな感覚である。
 たとえば、掲句ではヒヨコの誕生の事実と冬薔薇の景そのものではなく、「喜びと明るさ」の気分が顕れたことが重要であった。碧梧桐が新傾向に希んだものは無中心というよりも、この新しい感覚とも言えようか。山口誓子たちが新興俳句運動の中で得た「二物衝撃」の句は、この碧梧桐の新傾向俳句の延長上にあったのである。

 碧梧桐を師系とする作家瀧井孝作(俳号折柴)氏の次女・小町谷新子さんのご縁で『碧梧桐全句集』の出版が決まり、私が編集に携わったのは、虚子最晩年の弟子である深見けん二に師事を始めて数年後であった。当時の私は、子規の俳句革新も子規の双璧の弟子である虚子と碧梧桐との関係も理解できていなかったが、虚子の句よりも先に、碧梧桐の生涯の句に触れることになった。
 
 子規の俳句革新は、一歩一歩前へ突き進む中で成された。
 一つは、子規が始めていた「俳句分類」編纂である。一つは、子規が画家中村不折に写生を学び、写生論の影響を受けたことである。一つは、子規が日本新聞社と関わりを持つようになったことである。
 明治二十五年、新聞「日本」に「かけはしの記」「獺祭書屋俳話」を書くようになり、次いで社員となった。翌二十六年には子規選の「日本」俳句欄が設けられ、ここに集う俳人を日本派といい、代表作家となった虚子や碧梧桐たちの俳句の実証を示す場となっていった。
 
 子規の下での、碧梧桐と虚子の俳句を見てみよう。

  赤い椿白い椿と落ちにけり  碧梧桐 明治二十八年
  春雨の衣桁に重し恋衣  虚子 明治二十七年

 子規は碧梧桐を、「極めて印象明瞭なる句を作るに在り」と言い、子規の提唱した写生写実の句であり、感覚的だが即物的であり、客観描写の叙法なので、一つの到達点であると高く評価した。

 そして子規は虚子を、「複雑なる人事を俳句中に収めんとした」ものだと、趣向の多様化、複雑さを高く評価した。

 だが新傾向俳句から、季題無用論、自由律俳句、ルビ付き俳句へと進んでしまった碧梧桐は、昭和八年には、還暦祝賀会で俳句界からの引退を表明することになる。昭和十二年に亡くなったときの、朋友高浜虚子の弔句は「たとふれば独楽のはじける如くなり」であった。

 歌人玉城徹の著書『俳人虚子』から、氏の言葉を引用させていただく。
 「この空想世界というゆとりがあったために、虚子は、新傾向の方に行かずに済んだのではなかろうか。即物的な作者(碧梧桐を指す)は、いったいに、対象の分析に赴きやすい。対象そのものの中に、〈新〉を見ようとすると、そこから、言語組織の急激な変更が求められてくる。」