第五十二夜 高浜虚子の「冬日」の句

  藪の中冬日見えたり見えなんだり  高浜虚子 昭和三十三年

 鑑賞は次のようであろうか。
 
 鬱蒼とした藪に分け入ると、枯蔓に覆われた杉や竹林の葉影から、青空の欠片や冬日の木漏れ日が覗いている。風に藪が揺れると、冬日は光を鋭く枝葉の間にきらめかせるが、冬日が葉影に隠れると藪は忽ち暗くなってしまう。藪の中では夕日は、まさに見えたり見えなかったりである。
 冬日が見えると、心はふっと明るくなるし、見えなくなると、再び冬日を恋う心が芽生える。だが冬日は、葉影や雲に覆われて見えないときでも、その背後には必ず存在しているものである。
 
 芥川龍之介の小説に『藪の中』がある。藪の中で起きた殺人事件の関係者の言い分がみな異なり、事件の真相は結局わからず終いという話であるが、「藪の中」は、混沌としていて真実が見えにくいことの象徴でもある。「見えたり見えなんだり」は、人生のあらゆる場面に付いてくるものであるから、人生をあるがままと捉える虚子の、飄々とした表現の一つかもしれない。

 掲句は、藪の中で見えたり見えなかったりしている冬日を悠然と眺めているようであるが、虚子は、冬日の威容を確信している。「冬日」の作品は疎開先の小諸時代以降に多く見られ、その弱さも強さも柔らかさも暖かさも余すことなく詠んでいる。
  次は、虚子の好きな季題「冬日」の中の代表句。
 
  旗のごとなびく冬日をふとみたり  昭和三十三年
 
 『虚子俳話』の「冬日」の文章の一部を紹介しよう。
「冬日のある示現であった。
 小さく天にかかつてゐた冬日が、ある瞬間鶴翼を広げて見せた威容であつた。
 冬日を存問する人間に対する荘厳な回答であつた。
 風もなかつた。
 音もなかつた。
 ただ小さい固い冬日があつた。
 その冬日は、忽ち天涯に威容を示した旗のごとなびく冬日であつた。揺らぎつつある光の溶鉱炉であつた。」
 
 自然をずっと眺めていると、ある瞬間私にも、素晴らしい姿を見せてくれることがある。虚子はそれを「自然の荘厳な回答」だと言った。深見けん二は「季題の恩寵」だと著書『折にふれて』の中で、次のように言った。「俳句の作句を重ねると、季題の恩寵で、自分の力を超えた句が、稀に出来るのに気付き、その後、それは、「言葉」として授かることなのだということに気付いた。」と。