第五百十九夜 能村研三の「春の暮」の句

 晩春は暑くなく、寒くもなくちょうどよい気候で、勤め帰りもそこはかとなく明るい。このような日の夕暮れ時を「たそがれ時(黄昏時)ともいい、これは夕焼けで薄暗い中、景色が黄金色に輝く時間帯を示す言葉である。「逢魔時(おうまがとき)」という言い方もある。
 一方、明け方は「かわたれ時(誰彼時)」と書いたという。「あそこを行くのは誰だろう。」と、見えるか見えないくらいの明るさを言うそうだ。
 
 私は、20数年前に関東平野ど真ん中の茨城県南に移転してきた時、空の広さと丸さを感じた。見ようと思えば夜明けの「かわたれ時(誰彼時)」も夕暮れの「かわたれ時(誰彼時)」も、すぐ近くの利根川の土手に登れば見ることができた。母は父亡きあとに認知症を患うようになったが、朝日や夕日の中をドライブに連れ出すと喜んでくれた。
 当時は、牛久沼に沈む夕日の1番美しい時間やつくば市の洞峰沼の夕日に合わせて、一緒に出かけた。美しいのは、太陽そのものばかりではない。夕日が焦点を定めたように当たる、葦や芒や沼の小波が、輝きだす時間帯だからである。
 
 今宵は、「春の暮」の作品を見てゆこう。

  春の暮老人とあうふそれが父  能村研三 『現代歳時記』成星出版
 (はるのくれ ろうじんとあう それがちち)(のむら・けんぞう)

 句意は、春の夕暮れ時の帰宅途中に、向こうから歩いてくる老人がいる。視界には老人というだけで、さほど気にもとめていなかったが、その人は父だったのですよ、となろうか。
 
 作者の能村研三氏の父は、俳壇の大御所であり、大結社「沖」主宰であった能村登四郎である。現主宰は研三氏である。誰もが知っている能村登四郎を、すれ違った息子の研三氏が、瞬時に父であることに気づかなかったことが、「たそがれ時」の季題のもつ愉快さであろう。

  石手寺へまはれば春の日暮れたり  正岡子規 『ホトトギス 新歳時記』
 (いしてじへ まわればはるの ひぐれたり)(まさおか・しき)

 句意は、正岡子規が松山に戻った最後は明治28年で、その時も病後の静養中であったが、当時、松山で教員をしていた夏目漱石とともに俳句三昧の日々を送っていた。石手寺へ遠回りして、着いたときには、もう春の日が暮れていましたよ、となろうか。
 
 その後の8年ほどを寝たきりの生活になった子規にとって、春の日の楽しい夕暮れであったことが伝わってくるようだ。
 私にとって石手寺といえば、平成22年、松山放送局で収録したBS「俳句王国」に出演した帰途、同じ飛行機に乗るまで時間があったので、番組でご一緒した大石雄鬼(おおいし・ゆうき)さんと、石手寺を巡ることになった。寺の脇にある「洞窟マントラ」は、200mほどの長さのトンネルで真っ暗闇の中であった。ところどころに、仏の教えのマントラの書かれたものが明かりのなかに貼ってあったが、200mの暗闇を初めて長く感じた。1人ではとても入ってゆけない貴重な体験であった。

  いづかたも水行く途中春の暮  永田耕衣 『新歳時記』平井照敏編
 (いずかたも みずゆくとちゅう はるのくれ)(ながた・こうい)

 句意は、春には「朧」の季題もあるように、水蒸気が多い。空気の流れも水蒸気が多く、春の夕暮れ時は、なにもかも潤んでくるので、どちらへゆくも水が行くことと同じなのですよ、となろうか。
 
 はっきり目に感じるのは「朧月」や「街灯」「走る車のライト」などであろうが、たとえば、鐘の音にも鈴の音にも潤いが感じられる。
 「水行く途中」とは、夕暮れから夜にかけて、なにもかもが朧となる、水蒸気の多い春の優艶な季題をうまく捉えた言い方であると思った。

 永田耕衣は、明治33年―平成9年、兵庫県生まれ。禅的諧謔と実存的思想の俳人。「琴座(りらざ)」を創刊主宰。戦後「天狼」の同人となり、根源俳句研究論を展開。