第五百二十夜 山田みづえの「梅若忌」の句

 陰暦3月15日(現歴4月15日)は梅若忌。謡もしないし能「隅田川」も観たことはないのに、この物語のあらすじは小学生の頃には知っていたように覚えている。私が寝入るまで布団に入って物語を聞かせてくれたのは、なぜか、母でなく祖母であった。母は本を読み聞かせてくれることはあったが、祖母の、ゆったりした口調の話しぶりは老婆特有の匂いとともになつかしく思い出す。

 吟行句会では何度か、芭蕉記念館、清澄庭園へ行った。隅田川を眺めながら水辺の散策ができる河川テラスをゆくと、白い大きめの鳥が飛んでいる。「百合鴎(ゆりかもめ)」だ。「都鳥(みやこどり)」とも言う。
 この辺りが謡曲「隅田川」の主人公の梅若丸の舞台となった地で、菩提寺の天台宗木母寺がある。
 
 物語のあらすじは次のようである。
 梅若丸とは京都の貴族吉田少将の子で、人買いにかどわかされて奥羽にくだる途中、隅田川のほとりで病死する。翌年、同日に、梅若丸をさがして狂女となった母がこの地にやってきた。渡し守からこの話を聞いた母は、塚に行って大念仏に加わり、梅若丸の霊に漸く会うことができたという話である。この日に降る雨を「梅若の涙雨」という。
 
 今宵は、梅若忌の作品を見てみよう。

  突拍子なき笛続きをり梅若忌  山田みづえ 
 (とっぴょうしなき ふえつづきをり うめわかき) ▪やまだ・みづえ

 句意は、能の舞台では、笛、小鼓、太鼓、大鼓の囃子方が加わる。1番最初の甲高い笛の音は、突拍子もない音色とも思われますが、こうして梅若忌の演能「隅田川」は始まるのですよ、となろうか。
 
 かなりご高齢の笛方の奏でる、甲高いピーヒャラピーヒャラの音色は、いつ聴いても突然のように驚くが、やっと「はじまりね」と思えるようになった。山田みづえさんの「突拍子なき笛」は、まさにその通りで、感覚的な鋭い描写による音色が蘇ってくる。

  泥こねるうなゐ遊びも梅若忌  富安風生 
 (どろこねる うないあそびも うめわかき) ▪とみやす・ふうせい

 句意は、泥をこねて遊んでいるのは、おかっぱ頭の女の子にもみえる可愛いらしい男の子。今日は、幼い頃に人買いにかどわかされて連れ去られ病死してしまった梅若丸の命日ですよ、となろうか。
 
 富安風生の時代には泥んこ遊びをする男の子がいたのだろう。見れば何とも愛らしい。「うなゐ髪」は女の子をいう言葉と思っていたが、そうではないようだ。首筋あたりまで伸ばした断髪姿であるという。
 季題を「梅若忌」としたことで、読み手の想像力は一気に何百年もの昔へ遡ることができる。幼い梅若丸も「うなゐ」であったと思われ、作者は、眼前の泥んこ遊びの男の子を、すこし優雅に「うなゐ」としてみたのかもしれない。

  語り伝えへ謡ひ伝へて梅若忌  高浜虚子
 (かたりつたえ うたいつたえて うめわかき) ▪たかはま・きょし

 句意は、能「隅田川」となった、主人公梅若丸の死によって生まれた梅若忌の悲しい物語は、人々に語り継ぐことで、そして謡曲を謡い続けることで、後の世々までも伝えていくことができるのでしょう、となろうか。
 
 虚子は、昭和13年4月11日、富士見町の三輪女邸で行われた大崎会で、次の3句を詠んでいる。『五百五十句』にも「句日記」にも当日の作品は3句であった。ちょうど花見の頃であり、数日後は「梅若忌」である。
 
 1・肴屑俎にあり花の宿
 (さかなくず まないたにあり はなのやど)
 2・語り伝えへ謡ひ伝へて梅若忌
 (かたりつたえ うたいつたえて うめわかき)
 3・忌日あり碑あり梅若物語
 (きじつあり ひあり うめわかものがたり)
 
 陰暦3月18日の「小町忌」の小野小町も、生没年は定かでなく伝説も多いが、語り伝えられている平安前期の歌人である。