第五百二十一夜 中川宋淵の「竹の秋」の句

 春に「竹の秋」という季題がある。春4月ごろのことで、竹は他の植物とは逆に、この頃に葉が黄ばんでくる。他の植物が秋に紅葉、黄葉するのに似ていることから「竹の秋」という。
 一方、秋の「竹の春」という季題がある。秋に葉が青々としてくるので、他の植物とは逆に「竹の春」という。
 
 なぜ、春に竹の葉が黄ばんでくるのかというと、地中の筍を育てるため葉が機能を休めるために起こる現象だそうである。そのために竹は、春に黄ばんだ古い葉を落とすという。
 
 近所の農家から声かけがあって、夫は例年のように竹林から孟宗竹の筍を1本、掘らせて貰ってくる。大きな1本なので、皮を剥く作業も下処理もなかなか手間がかかる。今年は珍しく、私が起きてきた頃には、すでに茹で上がっていた。
 筍御飯が2回、煮物、中華風炒めもの、この3品を堪能することができた。
 
 筍が出てくることと「竹の秋」であることとが、私の中でようやく繋がった。
 
 今宵は、「竹の秋」の作品をみてみよう。

  一山の僧定に入る竹の秋  中川宋淵 『新歳時記』平井照敏編
 (いっさんのそう じょうにいる たけのあき) ▪なかがわ・そうえん

 句意は、臨済宗の禅僧である宋淵は、竹の葉が黄ばんできて、ときおり古い葉を落とす音のする寺で、いつものように精神統一をして、「定」の境地に入ってゆこうとしているところですよ、となろうか。

 禅僧としての日々の修業であろう。
 中川宋淵(なかがわ・そうえん)は、明治40年(1907)-昭和59年(1984)、昭和の臨済宗の禅僧。号は密多窟。俳人としても知られている。大学在学中の昭和6年(1931年)、山梨県の向嶽寺勝部敬学につき得度。後に、山本玄峰老師の法灯を継承し、臨済宗龍澤寺の住職となり、アメリカで禅宗の布教を行う。
 俳句は飯田蛇笏に師事し「雲母」同人。句集は『詩龕(しがん)』『命篇』

  竹の秋竹の里歌皆淡し  相生垣瓜人 『新歳時記』平井照敏編
 (たけのあき たけのさとうた みなあわし) ▪あいおいがき・かじん

 句意は次のようであろうか。
 正岡子規の歌集『竹の里歌』の作品は、どれも穏やかでほのぼのとした詠いぶりです。それは、ちょうど竹が黄ばんでしずかな音を立てて葉を落としているようですよ、となろうか。

 『竹の里歌』は、正岡子規の没後に、短歌の弟子であった伊藤左千夫らによって編まれた歌集で、明治37年(1904)刊。 短歌544首、長歌15首、旋頭歌12首を集成した遺稿集。
 正岡子規は、晩年の8年間は脊椎カリエスで病臥の日々であったが、俳句革新運動、短歌革新運動、写生文を考案するなど精力的であった。いずれも画家の中村不折(なかむら・ふせつ)に啓発された「写生」が基本であった。
 
 次の短歌は子規の作である。1首目は、子規の好きなベースボールの歌である。
 
  打ち揚ぐるボールは高く雲に入りて 又落ち来る人の手の中に  明治31年
  臥しながら雨戸あけさせ朝日照る 上野の森の晴をよろこぶ  明治32年
  瓶にさす藤の花ぶさみじかけば たゝみの上にとゞかざりけり  明治34年
  
 掲句の作者の相生垣瓜人は、明治31年-昭和60年、兵庫県高砂市に生まれる。「ホトトギス」水原秋桜子の「馬酔木」、阿波野青畝の「かつらぎ」の同人であった。