第五百二十二夜 木村聖の「行く春」の句

 以前にご恵贈頂いていた木村聖(きむら・きよし)句集『冬の蠅』(平成9年10月10日の刊行)と、本日、ぱったり目が合った。
 目次を見ると、冬、春、夏、秋、終章 再び冬の構成である。
 見開き1句で、右に俳句、左に詩のような小文がある。
  
 今宵は、木村聖さんの春の作品を紹介してみよう。
 
  行く春や山のたましひ歩きをり  『冬の蠅』
 (ゆくはるや やまのたましい あるきおり) 
 
 ■左ページの作者の詩文
   分け入つても分け入つても青い山
               山頭火
  男は歩く
  その目的のない道を
  やがて絶壁につながる道を
  むしろ軽やかに歩く
  山頭火はその行乞の旅に何を求めていたのか
  解脱?
  余りにも大きな犠牲の上にそれはある
  宿命?
  それは1人で背負うもの
  山頭火は1人で死んだ
  男はそんなことを考えながら山を歩いている
   うしろ姿のしぐれていくか
            山頭火
  春から夏、秋
  そして冬
  生きとし生けるもの
  めぐり来て死にいたる
  この光を帯びた青い草花
  鳥たちのさえずり
  山のたましいは静かに穏やかに死を包み込んでいる
  
 さらに句集『冬の蠅』では、木村聖さんの作品のあと、現代俳句協会の「海程」同人武田伸一氏による「いのちへの共感」という論評が置かれていて、本句集の読み方といくつか作品評が書かれている。
 一部を紹介させて頂く。
 
 ■「いのちへの共感」
 本句集は「冬」の章から始まり、「春」「夏」「秋」を経て、「終章 再び冬」で終わっている。しかも「再び冬」は、本句集の題名ともなった。
 
  陽をあびて透きとほりけり冬の蠅
  
という象徴的な1句をもって1章をなしている。これは木村氏の明らかな意図によるものと言わざるを得ない。
 非常に乱暴な言い方だが、「春・夏・秋・冬」という区分は、いわば誕生から死へ向かう推移である。ならば、本句集の四季の章立ては、死から再生、そしてまた死へという木村氏の意識、おおげさにいうなら、その思想の具現といっても差し支えないのではなかろうか。

 ■掲句の武田伸一評
 芽吹きのときを経て草木の花の大方は盛りを過ぎた。まさに春も終わろうとしている。やがて、木々の葉の茂りのときを迎えるわけだが、季節の移ろいのなかのほんの少しの急速とでも言おうか。その季節感の微妙なところを、「やまのたましひ歩きをり」がよく言い得ている。
 
 本句集『冬の蠅』は、繰り返しになるが、木村聖の俳句と詩文のハーモニーに、武田伸一氏の論評が加わったことで、さらなるアンサンブルとなっている。
 今宵の「千夜千句」では、筆者のあらきみほは、加わらないことにした。
 
 木村聖(きむら・きよし)は、昭和24年、神戸市に生まれる。愛知大学文学部仏文学科卒。日本工業新聞社神戸総局勤務。(句集刊行時)