以前にご恵贈頂いていた木村聖(きむら・きよし)句集『冬の蠅』(平成9年10月10日の刊行)と、本日、ぱったり目が合った。
目次を見ると、冬、春、夏、秋、終章 再び冬の構成である。
見開き1句で、右に俳句、左に詩のような小文がある。
今宵は、木村聖さんの春の作品を紹介してみよう。
行く春や山のたましひ歩きをり 『冬の蠅』
(ゆくはるや やまのたましい あるきおり)
■左ページの作者の詩文
分け入つても分け入つても青い山
山頭火
男は歩く
その目的のない道を
やがて絶壁につながる道を
むしろ軽やかに歩く
山頭火はその行乞の旅に何を求めていたのか
解脱?
余りにも大きな犠牲の上にそれはある
宿命?
それは1人で背負うもの
山頭火は1人で死んだ
男はそんなことを考えながら山を歩いている
うしろ姿のしぐれていくか
山頭火
春から夏、秋
そして冬
生きとし生けるもの
めぐり来て死にいたる
この光を帯びた青い草花
鳥たちのさえずり
山のたましいは静かに穏やかに死を包み込んでいる
さらに句集『冬の蠅』では、木村聖さんの作品のあと、現代俳句協会の「海程」同人武田伸一氏による「いのちへの共感」という論評が置かれていて、本句集の読み方といくつか作品評が書かれている。
一部を紹介させて頂く。
■「いのちへの共感」
本句集は「冬」の章から始まり、「春」「夏」「秋」を経て、「終章 再び冬」で終わっている。しかも「再び冬」は、本句集の題名ともなった。
陽をあびて透きとほりけり冬の蠅
という象徴的な1句をもって1章をなしている。これは木村氏の明らかな意図によるものと言わざるを得ない。
非常に乱暴な言い方だが、「春・夏・秋・冬」という区分は、いわば誕生から死へ向かう推移である。ならば、本句集の四季の章立ては、死から再生、そしてまた死へという木村氏の意識、おおげさにいうなら、その思想の具現といっても差し支えないのではなかろうか。
■掲句の武田伸一評
芽吹きのときを経て草木の花の大方は盛りを過ぎた。まさに春も終わろうとしている。やがて、木々の葉の茂りのときを迎えるわけだが、季節の移ろいのなかのほんの少しの急速とでも言おうか。その季節感の微妙なところを、「やまのたましひ歩きをり」がよく言い得ている。
本句集『冬の蠅』は、繰り返しになるが、木村聖の俳句と詩文のハーモニーに、武田伸一氏の論評が加わったことで、さらなるアンサンブルとなっている。
今宵の「千夜千句」では、筆者のあらきみほは、加わらないことにした。
木村聖(きむら・きよし)は、昭和24年、神戸市に生まれる。愛知大学文学部仏文学科卒。日本工業新聞社神戸総局勤務。(句集刊行時)