第五百二十五夜 高浜虚子の「鞦韆(しゅうせん)」の句

   子どもの時間      河合隼雄

 (略)友だちの運動を楽しそうに、時にはうらやましそうに見ていた子がある日とうとうブランコに乗ってみる。その時の彼の顔の輝きはどんなものだろう。この子が思い切ってブランコの綱にさわってみた「とき」、それは何と重みをもった「とき」であろうか。時間にも厚みがあるようだということはさきにのべた。ここに示した「とき」はそのような厚みの最高に凝集されたものであり、限りない充実感をもっている。ブランコのひとふりひとふりに、その子は自分の「いのち」のリズムを感じたにちがいない。
           新しい教育と文化の探求――カウンセラーの提言』創元社

 ブランコは、俳句では、語の調べがよいからだろう、「ふらここ」「鞦韆(しゅうせん)」という言い方がよく使われる。
 「鞦韆」とは、唐・宋時代や遼代、婦人や子どもたちの楽しい活発な遊びとなり、唐の玄宗皇帝は、「鞦韆」を「半仙戯(はんせんぎ)」と呼んだ。「半仙戯」とは、半ば仙人になったような気分にさせる遊びの意である。唐詩などにもよくうたわれ、それが日本にもたらされたという。このように、「ブランコ」にはいろいろな呼び名がある。

 今宵は、「ふらここ」「鞦韆」の句を見てみよう。

  鞦韆に抱き乗せて沓に接吻す  高浜虚子 『五百句』
 (しゅうせんに だきのせてくつに せっぷんす) ▪たかはま・きょし

 句意は、『喜寿艶』に書いているが、「昔は鞦韆といふやうなものも大宮人の間に行はれてゐたらうかと想像して作つた句である。女を鞦韆に抱き乗せてその沓に接吻した。」と、なるであろう。
 
 大宮人とは、朝廷に仕える貴族や公家のこと。万葉集が作られた奈良時代の朝廷を思えばよいかもしれない。
 虚子がこの句を詠んだのは、大正7年4月16日、柏木かな女居で行われた婦人俳句会であった。婦人俳句会は、大正4年船河原町の「ホトトギス」発行所で第1回開催。虚子の肝いりで出来た女性だけの句会。長谷川かな女が中心であった。柏木かな女居とあるのは、新宿柏木にあるかな女宅。
 季節は春4月、しかも女性ばかりの句会である。会者の女性たちは、雅な貴族の女性になったように感じたかもしれない。
 まさに、サービス精神豊かな虚子らしい出句であったと言えよう。

  児は去りて陽がふらここを漕いでをり  林 翔 『新版 俳句歳時記』雄山閣
 (こはさりて ひがふらここを こいでをり) ▪はやし・しょう

 句意は、ブランコに乗って遊んでいた子が、もう飽きてしまったのか、飛び降りて行ってしまった。誰も乗っていないブランコが、しばらく揺れ残っている。その揺れ様は、太陽がブランコを漕いでいるようでしたよ、となろうか。
 
 ブランコ遊びに飽きた子が、飛び降りるようにして去ってゆく場面はよく見かける。かつての自分と重なり、わが子の姿とも重なる。だが、飛び降りた勢いで揺れ残っているブランコを、「陽がふらここを漕いでをり」と、突如、太陽を主役にしてしまったことで、詩情豊かな光景となった。

  鞦韆は漕ぐべし愛は奪ふべし  三橋鷹女 『蝸牛 新季寄せ』
 (しゅうせんは こぐべし あいはうばうべし) ▪みつはし・たかじょ

 句意は、鞦韆とは漕ぐべき遊具であり、愛とは待っているのではなく、自ら奪うようにして得るものですよ、となろうか。
 
  あらきみほ句集『ガレの壺』のあとがきに、私は鷹女の言葉を書いていた。鷹女俳句は、私の強いあこがれであった。
 三橋鷹女は「一句を書くことは、一片の鱗の剥奪である。」と言ったが、当時の私にとっては一句書くごとに剥がれた鱗をそっとはめ込んでゆく作業のようであった、と。