第五百二十七夜 谷口宏子さんの「春愁」の句

 谷口宏子さんは、2021年の「花鳥来」121号に、谷口宏子百句集「白梅」を発表された。拝見したお礼の意を込めて、ブログ「千夜千句」に書かせて頂くことにした。
 「花鳥来」の入会は平成14年であるが、「花鳥来」の例会でも誌上でも作品の素晴らしさに驚かされたが、当然であった。平成8年から職場の三菱地所の句会「菱の実会」で深見けん二先生の指導を受けていたのだ。
 
 谷口宏子百句集「白梅」にけん二先生の序文がある。
 虚子先生の説かれた「生活の記録ではあるけれども、それは唯の記録ではない。春夏秋冬の現象を透しての生活の記録である。」
 この俳話を忠実に実践、そこに「谷口宏子」という人間が出た「百句集」と云えよう。
 
 今宵は、谷口宏子百句集「白梅」の中の作品を鑑賞させて頂こう。
  
  春愁やひとりが好きと言つてのけ
 (しゅんしゅうや ひとりがすきと いってのけ)

 句意は、明るい春なのに何故か哀愁のような憂鬱なような気分になることがある。はっきりした理由がないのに、一人になりたくて、「わたしのことは放っといてよ。ひとりが好きなんだから。」と、言い放ってしまいましたよ、という気分だろうか。

 中学、高校、大学生になっても、私は、母親に向かって「放っといてよ」と、言ったことを覚えている。
 「ひとりが好き」とは、「わたしの心に入って来ないで!」「ひとりで考えているのだから!」という、自己主張なのである。
 「言つてのけ」は、かなり強い行動の表現だと思う。人を包み込むような明るい眼差しの作者宏子さんの言葉ではないような気がする。もしかしたら反抗期の頃の子どものことであろうか。【春愁・春】

  蜘蛛の囲に一カラットの雨雫
 (くものいに 1カラットの あましずく)

 句意は、雨が止んだ直後、蜘蛛の囲を見上げると落ちそうで落ちない大きな雨雫が囲に輝いていましたが、大きさと煌めきはまるで1カラットのダイアモンドのようでしたよ、となろうか。

 百句集の中で、1番に好きな句である。蜘蛛の囲に大きな雨雫を見たことがあるが、1カラットという大きさの、とてつもない高価なダイアモンドに譬えたところが凄い。
 例えば、虚子はベルギーで大きな春の雲を眺めて、〈宝石の大塊のごと春の雲〉と詠んでいる。
 しかし、宏子さんの作品の「一カラットの雨雫」は、忽ち、透きとおったブリリアント・カットのダイアモンドの宝石の輝きを感じることができる。
 これは、虚子からけん二先生へと受け継がれ、さらに宏子さんが受け継いだ、具体的で的確な描写の力の作品であるからだと思う。【蜘蛛の囲・夏】

  子は影を落葉に置いてかくれんぼ
 (こはかげを おちばにおいて かくれんぼ) 

 句意は、子とかくれんぼごっこをした時のこと。「もういいかい」と言いながら探しはじめたお母さんには、直ぐわかったのだ。なぜって! 子は、木の後ろに隠れたつもりだったのに落葉に置いた自分の影に気づかなかったから、お母さんに忽ち見つかってしまったのですよ、となろうか。

 「子は影を落葉に置いて」という、ゆったりした丁寧な描写から、子は、落葉を踏む音も立てずに静かに上手に隠れたつもりだったのではないだろうか。だが日中は影が生まれる。そこまで考えて子は、かくれんぼごっこはしていない。
 物をよく見るだけでは捉えることはできない部分まで、捉えきった作品である。【落葉・冬】

 谷口宏子(たにぐち・ひろこ)は、昭和21(1946)年、東京の生まれ。俳句は、勤務先の三菱地所の「菱の実会」に始まるが、当時そこで指導されていた深見けん二先生と出会う。平成14年「花鳥来」に入会し、俳誌「花鳥来」の登場は47号からである。俳人協会会員。