第五百二十八夜 加藤惠子の「熱燗」の句

 加藤惠子さんが生地である青森県へ帰ってゆかれたのは、令和元年の12月。毎年の「花鳥来」忘年会の直前に引っ越されていたが、この忘年会には青森から馳せ参じた。俳歴は長い。昭和50年、山口青邨主宰「夏草」に入会、平成3年、青邨没後に生まれた深見けん二主宰の「花鳥来」と有馬朗人主宰の「天為」に入会。「花鳥来」ではずっと役員として会計を担当されていた。
 
 惠子さんは人懐っこい方で、なかなか懐かない私も、いつの間にか話の輪に引き込んでくれた。青森の方と知って、学生時代の仲間と行った十和田湖行きのバスの窓に広がる林檎畑の話をした。10月末のことで林檎はたわわに実り、どの木もみな林檎の重さで撓っていたのだ。
 「もう一度あの光景を見たい!」と口に出したら、「いいよ! 行こうよ!」と、数ヶ月後の平成20年10月のドライブ旅行となった。惠子さん、熾さん、征子さん、みほの4人。
 
 今宵は、こうした話も混ぜながら、加藤惠子さんの作品を紹介させて頂こう。
 
  熱燗や別れの席は師に向かひ  「花鳥来」120号特集「近詠自選30句」
 (あつかんや わかれのせきは しにむかい)

 句意は、熱燗の杯を交わしています。今夜の忘年会は私にとっては師との別れのようなもの、仲間は師に向かい合う席を用意してくださいましたよ、となろうか。
 
 惠子さんは、吟行句会の「花鳥来例会」にも、「明日香の会」「望の会」「MAKOの会」の3つの小句会にも欠かさず出席している弟子である。
 だが投句はしても毎回の出席は叶わない遠く離れた青森県へ戻ることになった。今日の中華料理店の忘年会に青森から駆けつけた惠子さんに、師と同じテーブルに名札が置かれ、向かい合って座った。
 案外、照れてしまって話が弾むことはなかったかもしれない。
 その後、〈玄関に師の句友の句年迎ふ〉と詠まれているので、皆が別れの挨拶に贈った句の短冊が青森の家に飾られているのであろう。【熱燗・冬】
 
  障子開け姉の暮しをちよつと覗き  「花鳥来」120号特集
 (しょうじあけ あねのくらしを ちょっとのぞき)

 句意は、青森の家は恵子さんのお姉さんの家と地続きである。毎日ほんのちょっとでもお姉さんの様子を見ようと、縁側の障子を開けて声をかけているのですよ、となろうか。
 
 平成20年に4人でドライブ旅行で押しかけた家は、いつか戻ってくる日のために恵子さんは自宅を建てた家だ。手入れの行き届いた庭も、客用の洋風のお洒落な離れもある。この離れで、素晴らしいデイナーを準備してくださったのが妹さんであった。その真新しい家にお邪魔した。
 その折、私たちはお姉さんと挨拶をかわした。「姉の暮らしをちょつと覗き」は、それぞれの暮らしがあるから姉妹と言えども、こうした心配りの距離感は大切かもしれない。【障子・冬】

  鍬を買ひ終の住処の畑打つ  「花鳥来」120号特集
 (くわをかい ついのすみかの はたけうつ)
 
 句意は、青森に戻ったら畑作りをしたいと言ってた惠子さん。鍬を買って、さあいよいよ、野菜を作り花を植える用意の、まずは土作りからはじめましたよ、となろうか。

 〈あれこれの花種揃へ春を待つ〉と詠み、〈アスパラガスぽきぽき折つて茹でにけり〉と詠んでいる。
 どうやら、畑作りも順調に滑り出しているようだ。【畑打ち・春】

  両手もて世界一てふ林檎捥ぐ  『駅』 
 (りょうてもて せかいいちちょう りんごもぐ)

 句意は、「世界一」という銘柄の林檎を両手をつかって落とさないように、捥いでいますよ、となろうか。
 
 林檎園はこの旅の第1の目的であった。林檎の重さで枝が撓るような樹形は、私が見たいと願っていた通りであった。
 大きな林檎には1つ1つ袋がかけられていた。覗いてみると真っ赤に色づいていた。林檎の木は見上げるほどではなく、作業がしやすい高さなのだと思った。
 〈林檎捥ぐ今日も雲なき岩木山〉の句が一緒に並んでいた。岩木山は美しい山容をみせていて、津軽富士とも言われるそうだ。
 
 林檎園を出発すると、紅葉谷を見下ろす紅葉街道を走る。遠くに尖ったような山々を指して、「あれが有名な八甲田山よ。」と教えてくれる。新田次郎の小説『八甲田山死の彷徨』がちらっと過ぎったが、深々とした紅葉林を走り抜ける美しさの方に気をとられていた。【林檎・秋】
 
 加藤惠子(かとう・けいこ)は、昭和19年、青森県十和田市の生まれ。。昭和50年、山口青邨主宰「夏草」に入会、青邨没後の平成3年、深見けん二主宰の「花鳥来」と有馬朗人主宰の「天為」に入会。句集『駅』(平成13年刊行)。俳人協会会員。